社会部時代(21)2007年04月02日 07:55

 ところが、尚一の告白から年が明けた1963 (昭和38) 年の3月中ごろだったと記憶するが、社会部の私のところへ彼が訪ねてきて、「実は、両親を説得して結婚が決まった。ついては、披露パーティーの司会を引き受けてくれ」「5月に帝国ホテルに数百人のお客を招いてお披露目をする」のだと、意気込んで言う。
 そんな大がかりな会合の司会など、やったことがなかったので、「とても自信がない。私などより慶応の学友とか、あなたをもっと古くから知っている適当な友人がいるでしょう」と固辞したが、「引き受けてくれる人が、実はいない。皆に断られた。ご迷惑だろうが、お願いしたい」と繰り返す。
 遊軍勤務になって、形だけとはいえ本社に席を置いてみると、編集局の中に大小、硬軟の派閥があることも薄々分かってきた。そんな中で、社主家や、その系列といわれる人たちへの厳しい視線があることにも気付いていた。
 だから、迂闊に引き受けて、痛くもない腹を探られるのも面白くない。初めはすげなく断っていたが、2度、3度と押し返しているうちに、彼の、ひどく孤独な立場が気の毒に思えてきた。
 もとより、厄介なことだからと逡巡するのは、性に合わない。まして頼って来た相手を、他人の色目を恐れて突き放すのは男気に反すると、結局、承諾した。
 ところがそのころ、すでに、後に朝日の屋台骨を揺るがすような大騒動に発展する「村山家一統」対「上野家を引き込んだ社側」の対立抗争「第二次朝日騒動=村山事件」の前哨戦だった「村山夫人清水氏骨折事件」の騒動が起きていたのだ。
 ただ、まだそのころの社内では、「いつもの村山夫人の横紙破りだ」程度の受け止め方が一般的で、事件の収拾には部長以上のごく限られた幹部が水面下で当たっていたに過ぎず、私のような社会部のヒラ部員は、ほんのあら筋を聞かされている程度でしかなかった。(;)

社会部時代(22)2007年04月03日 08:07

 帝国ホテル孔雀の間で、尚一・美奈の結婚披露宴が行われたのは、1963 (昭和38) 年の5月13日だった。当日、少し早めに会場に行って、貸衣装のモーニングを一着に及び、媒酌人の社主、村山長挙・藤子夫妻らの控えの間に、「本日、司会を勤める」旨の挨拶に行った。  夫妻とは、すでに面識があった。というのは、当時、藤子夫人と夫妻の長女美知子 (現社主) が主宰していた「大阪国際フェスティバル協会」が、海外のバレエ団やオーケストラを呼んで、その東京公演があったり、朝日が海外の著名人を招いてシンポジウムのような催しをしたりすると、今はホテルオークラの新館が建っている辺り、麻布市兵衛町にあった村山家の広大な東京別邸で、盛大なレセプションが開かれる習わしがあった。  そんな折は、「ペラ屋」と呼ばれた英語やフランス語など、外国語が話せる東京編集局の記者たちに、接待役としての招集がかかった。  そのころの社会部の席は、有楽町の東京本社ビル3階の窓べりを占めていた。窓からは、菊田一夫のラジオ・ドラマ『君の名は』で名所になった数寄屋橋と、その下に淀む掘割が見下ろせた。掘割といっても、巨大なドブといった趣で、引き潮で水が少なくなると、底に溜まった黒い泥が現れ、子猫ほどの図体のネズミが走り回る。社会部の席の列は、同じ窓側の外報部、内側の政治部、少し離れて整理部と隣り合っていた。  編集局長室から「ペラ屋」の招集が降りて来ると、社会部長の田代などは、社会部の遊軍席と外報部に聞こえるように、「おーい、ペラ屋ーっ。またお座敷だーっ。5時半までに市兵衛町に行ってくれー」と、投げやりな声で、誰に言うとなく怒鳴る。  オウナー家と新聞社に、宮中・府内の別が不分明な時代だった。招集命令を受けた部長は、正面から部下に伝えるわけにもいかず、社主家の命を無視するわけにもいかなかったのだ。(;)

社会部時代(23)2007年04月04日 21:32

 「ペラ屋」の招集は、記者たちにとっても、気乗りのするお呼びではなかった。 「1本、急ぎの原稿を抱えていますので、……」などと、口実を設けては逃げようとするが、「原稿は帰って来てからでいいよ。ついでに、レセプションの記事を10行ばかり出してくれよな」などと、肩を叩かれて押し出されてしまう。  なにしろ、朝刊最終版の記事が午前3時過ぎまで悠々入る時代だ。「原稿は帰って来てからでいい」には、抗弁できない。おまけに、というか、最終版に出稿すると、試刷りが上がってくる午前4時ころまでは、最終点検のために待機しなければならなかった。  先輩たちにくっついて、初めて市兵衛町のガーデン・パーティーに行った時は驚きだった。  欧米の映画の世界でしか見たこともないような豪壮な洋風邸宅、天井の高いエントランス・ホール、手入れの行き届いた芝生が、なだらかな斜面を覆う広々とした庭園、背景の植え込みの手前に並ぶ、寿司、天ぷら、ロースト・ビーフ、ポト・オウ・フやコンソメなどの屋台を目の当たりにし、丘を下ればプールもあると聞いて、当時としてはひどく浮世離れしたものを感じさせられた。  特に、かつて社長をした師・長谷部の質素な住まいや、田代の文字通りの“陋屋”に比べて、若い胸には、「均しからざるを憂う」気持ちが、ふつふつと湧いた。戦後間もなく、大田区馬込にあった長谷部の自宅を、GHQのインボデン新聞課長が表敬訪問しようと近くまで行ったところ、朝日の代表の住まいとは思えぬ質素さに驚き、訪問を遠慮して引き返してしまったという逸話がある。  石神井公園にあった田代の家は、そのころ毎日のように午前の帰宅になる田代が、長い寝酒の相手に、手当たり次第連れて帰る後輩たちの狼藉で、荒れるにまかせてあった。わいわい口論を交わしつつ飲んでいる隣の部屋で、騒音をものかわ眠っている娘さんたちの足が、骨まで破れたフスマ越しに見え隠れしていた。そこには、貧富など問題の外に置く「新聞記者」がいた。(;)

社会部時代(24)2007年04月05日 08:13

  田代の家は、後年、彼が役員になって現場の記者が遠ざかるにつれ、こんどは犬が荒らした。彼は、コリーやボルゾイのような大型犬を、座敷犬として愛玩した。リスが何匹も走り回っていたころもあった。ために、家具は囓られ放題。家に上がると何とも異様な匂いが漂っていたが、主は一向に意に介するところがなく、時に愛犬のために作った特製の牛乳ガユを、一つボウルですすることさえあった。  ★肝臓を壊して酒を慎むようになるまでは、特派員が「貴重品、貴重品」と、海外から持ち帰った高級ブランデーを、コココと、まるで水のようにグラスに注いであおる始末。彼特有の「気取り」だったのかもしれないが、家や身に着けるもの、持ち物、食べ物には、まるで頓着がなかった。  ★陸軍将校としてガダルカナル作戦に加わった生き残りの一人ということだったが、ほとんど戦争体験を口にせず、「使命感」という言葉を拒んで「余命感」と言った。  ★熊本・八代育ちの軍隊暮らしで身に付けたのか、普段コキおろしている上役でも、面と向かうと直立不動になるところがあって、本質は、ギラギラした権力指向の持主だった。  ★しかし、彼が欲しがった権力は、「余命」を注ぎ尽くした自ら理想とするジャーナリズムの実現のための道具だったのだろう。権力の座そのものへの執着心や、権力がもたらす甘い汁への俗心とか金銭欲には、およそ縁のない人物だった。  ★それだけに、「田代の四天王」とか「田代のお小姓連」とかいわれた岩井弘安、佐伯晋(後に朝日新聞編集担当専務・テレビ朝日特別顧問) 、伊藤邦男 (後に朝日新聞編集担当常務・テレビ朝日社長) 、涌井昭治 (後に朝日新聞常務、九州朝日放送会長) などの面々が、田代とは大違いで、創造力も抱負経綸も、それこそ命懸けの理想もないのに、なぜ徒に地位にしがみつき、金銭欲と権勢欲にまみれて、俗臭ふんぷんたる老醜を晒したのか、私には理解がつかない。(;)

社会部時代(25)2007年04月06日 08:02

 話が脱線したが、戻る。市兵衛町に呼ばれた「ペラ屋」たちは、ひと苦労だった。まごまごしていようものなら、ツツツと寄ってくる「於藤さん」こと村山藤子夫人に、「あなた、何をなさってらっしゃるの? ほら、あそこで独りぼっちの方がいらっしゃるじゃありませんか。早く行って、お相手して差し上げなさいっ」などと、追い立てられる。   ★とにかく、当時は役員、局長クラスは“番頭”、それ以下の社員は“丁稚”並みというあしらいだった。   ★朝日では、広岡知男社長時代の半ばまで、役員に選ばれた幹部は、創業者で藤子の実父である村山龍平の墓参りをするのが長年の慣習だった。   ★村山家の衰退につれて、この行事は打ち切られたが、広岡への服従の姿勢を見せながら、村山家にも保険をかけ、密かに龍平の廟所の掃除に行った局長が何人かいた。   ★尚一の結婚披露カクテル・パーティーに戻る。村山夫妻らの控室を訪ねて感じたのは、ひどく重苦しい、その場の空気だった。尚一の祖父・精一、父親・淳一と夫人らが、村山夫妻に応対していたが、婚礼の日らしい華やいだ雰囲気はまるで感じられなかった。   ★気になったのは、大きなテーブルの正面に、村山夫妻が椅子3つ分くらい間を空けて座っていたことだった。型通りの挨拶を済ませ、さっさと退散しようとしたら、藤子夫人が「あなた、どういうご関係?」と乾いた声で聞く。当方は挨拶の冒頭に「たまたま新郎と支局で一緒だった関係で、……」と言ったはずなのに、聞き落としたらしい。   ★で、もう一度繰り返すと、最後まで聞かずに「あっ、そう」と、ニコリともせずに言った。あまり不機嫌そうなので、例の「骨折」が痛むのかな、などと思ったほどだった。   ★当方は、ホテルの担当者らとの打ち合わせも残っている。それを口実に、早々に退散した。(;)