社会部時代(22)2007年04月03日 08:07

 帝国ホテル孔雀の間で、尚一・美奈の結婚披露宴が行われたのは、1963 (昭和38) 年の5月13日だった。当日、少し早めに会場に行って、貸衣装のモーニングを一着に及び、媒酌人の社主、村山長挙・藤子夫妻らの控えの間に、「本日、司会を勤める」旨の挨拶に行った。  夫妻とは、すでに面識があった。というのは、当時、藤子夫人と夫妻の長女美知子 (現社主) が主宰していた「大阪国際フェスティバル協会」が、海外のバレエ団やオーケストラを呼んで、その東京公演があったり、朝日が海外の著名人を招いてシンポジウムのような催しをしたりすると、今はホテルオークラの新館が建っている辺り、麻布市兵衛町にあった村山家の広大な東京別邸で、盛大なレセプションが開かれる習わしがあった。  そんな折は、「ペラ屋」と呼ばれた英語やフランス語など、外国語が話せる東京編集局の記者たちに、接待役としての招集がかかった。  そのころの社会部の席は、有楽町の東京本社ビル3階の窓べりを占めていた。窓からは、菊田一夫のラジオ・ドラマ『君の名は』で名所になった数寄屋橋と、その下に淀む掘割が見下ろせた。掘割といっても、巨大なドブといった趣で、引き潮で水が少なくなると、底に溜まった黒い泥が現れ、子猫ほどの図体のネズミが走り回る。社会部の席の列は、同じ窓側の外報部、内側の政治部、少し離れて整理部と隣り合っていた。  編集局長室から「ペラ屋」の招集が降りて来ると、社会部長の田代などは、社会部の遊軍席と外報部に聞こえるように、「おーい、ペラ屋ーっ。またお座敷だーっ。5時半までに市兵衛町に行ってくれー」と、投げやりな声で、誰に言うとなく怒鳴る。  オウナー家と新聞社に、宮中・府内の別が不分明な時代だった。招集命令を受けた部長は、正面から部下に伝えるわけにもいかず、社主家の命を無視するわけにもいかなかったのだ。(;)