社会部時代(23)2007年04月04日 21:32

 「ペラ屋」の招集は、記者たちにとっても、気乗りのするお呼びではなかった。 「1本、急ぎの原稿を抱えていますので、……」などと、口実を設けては逃げようとするが、「原稿は帰って来てからでいいよ。ついでに、レセプションの記事を10行ばかり出してくれよな」などと、肩を叩かれて押し出されてしまう。  なにしろ、朝刊最終版の記事が午前3時過ぎまで悠々入る時代だ。「原稿は帰って来てからでいい」には、抗弁できない。おまけに、というか、最終版に出稿すると、試刷りが上がってくる午前4時ころまでは、最終点検のために待機しなければならなかった。  先輩たちにくっついて、初めて市兵衛町のガーデン・パーティーに行った時は驚きだった。  欧米の映画の世界でしか見たこともないような豪壮な洋風邸宅、天井の高いエントランス・ホール、手入れの行き届いた芝生が、なだらかな斜面を覆う広々とした庭園、背景の植え込みの手前に並ぶ、寿司、天ぷら、ロースト・ビーフ、ポト・オウ・フやコンソメなどの屋台を目の当たりにし、丘を下ればプールもあると聞いて、当時としてはひどく浮世離れしたものを感じさせられた。  特に、かつて社長をした師・長谷部の質素な住まいや、田代の文字通りの“陋屋”に比べて、若い胸には、「均しからざるを憂う」気持ちが、ふつふつと湧いた。戦後間もなく、大田区馬込にあった長谷部の自宅を、GHQのインボデン新聞課長が表敬訪問しようと近くまで行ったところ、朝日の代表の住まいとは思えぬ質素さに驚き、訪問を遠慮して引き返してしまったという逸話がある。  石神井公園にあった田代の家は、そのころ毎日のように午前の帰宅になる田代が、長い寝酒の相手に、手当たり次第連れて帰る後輩たちの狼藉で、荒れるにまかせてあった。わいわい口論を交わしつつ飲んでいる隣の部屋で、騒音をものかわ眠っている娘さんたちの足が、骨まで破れたフスマ越しに見え隠れしていた。そこには、貧富など問題の外に置く「新聞記者」がいた。(;)