社会部時代(27)2007年04月10日 07:59

 底流で重大な「お家騒動」が進んでいることなど、つゆ知らぬ私は、“大役”を終えた直後、スペインへ「語学練習生」として留学を命じられ、1963 (昭和38) 年7月、日本を離れる。
 ★語学練習生とは、戦後の1953 年に人材育成を目的に朝日独自で作った制度だ。当時は、毎年2~3人の若い記者を海外に1年間派遣し、語学と外地の事情を学ばせていた。初代は、ロンドンに派遣された一柳東一郎(のち社長)が、その1人だった。
 ★1963年の派遣組は、帰国してすぐの1964年10月に東京オリンピックが控えていたことがあって、やや変則的な人選だった。私の記憶では、英国に浜田隆 (のち労務総務担当常務) 、フランスに涌井 (前出) =ともに1953年入社、香港に籏野寿雄 (のち調査研究室主査) が送られた。
 ★私は、予め打診を受けた時、「フランス語をブラッシュ・アップしたいので、……」とフランスを希望したが、全く予想外のスペイン行きを内示された。東京オリンピックを控え、スペイン語のできる記者がいない、というのが理由だった。
 ★しかし、私にとってスペイン語は友人の教科書を覗いた程度の付き合いしかなかった。英語とフランス語は、学生時代に毎日、四谷の日仏学院と神田の英語学校をハシゴして鍛えた経験があった。
 ★それだけに、外国語が1年やそこいらでモノになるものでないことをよく知っていたから、内示役の社会部長代理の岩井に、「むちゃです。とても自信がありません。希望のフランスがだめなら、2~3年待たせてください」と言った。しかし岩井は、「自信がないだなんて言いぐさは社会部じゃ通じねぇよ。せっかく取ったワクなんだから、ぜいたく言わずに行ってこい」と取り合ってくれない。
 ★そこで翌日、田代に辞退の直談判に及んだ。ところが田代は「忙しいときにクダクダ言うな。だいたい、スペインってどこにあるんだ」と言う。
 ★ 「ご冗談でしょう。ピレネを挟んでフランスの隣ですよ」 「それならいいじゃねぇか。行ったり来たりすりゃぁいいだろ」 「しかし……」 「もう決まったことだ。手続きも終わっている。さっさとパスポートとビザを取れ」と、とりつくシマもなかった。(;)