社会部時代(29)2007年04月12日 07:58

 私は、最初の海外取材地ニューデリーで、羽田から同行した涌井と別れ、インド、パキスタンを取材して、ローマ、パリ経由、8月25日にマドリッドに入った。
 翌1964 (昭和39) 年7月15日に帰国するまでのほぼ1年間は、私という人間を大きく変えた。まず、マドリッドでベルリッツに通ってスペイン語の基礎を学んでから、64年1月から3月まで、マラガに講座を開いていたグラナダ大学の外人コースに入って、米、英、仏、西独、イタリア、スイス、スウェーデンなどの学生と共に、ただ一人の日本人として「スペイン通論」や「スペイン文化論」などを学んだ。
 当時のスペインには、マドリードですら、大使館を除くと三井物産2人、JETRO1人、少数の画家程度しか日本人は住んでおらず、マラガに移ってからの約4カ月は、日本語を話す機会が全くなかった。画家の一人には、プラード美術館に通いつめてボッシュの細密画の模写に励んでいた安井賞作家・藤田吉香(故人)がいて、多くを教わった。
 このような環境が幸いしたのか、課題のスペイン語は、何とか日常会話に不自由しない程度まで身につけることができた。
 こうした生活の中で、何ごともオープンな論争と、納得づくで処理してゆく「ことの処し方」と、年齢や性別、国籍や身分をほとんど問わない、親分・子分といったジメジメした日本的人間関係とは無縁な「欧米流のドライな行き方」を、知らず知らずに身につけたのだった。
 当時としては、日本からはあまりに遠く、知人や有力な紹介者もいなかったことが、かえって「欧米流」の理解に役立った。英語やフランス語がほとんど通用しなかった当時のスペインで、下宿探しから銀行口座の開設、学校選びやマイ・カーの購入交渉までを一人でこなすうちに、言葉はもとより、人々のものの考え方や生活パターンまでが、肌身でわかるようになっていった。(;)=この項終わり