腹の中の目玉2005年03月21日 08:34

 学生時代、故あって東京・小伝馬町に住んだ。昭和30(1955)年を前後にするころだ。繊維・食品・建材などの問屋が多く、表通りには新橋・築地・銀座・浅草などに通じる都電が縦横に走っていて、昼間は商いの人たちでたいへん賑わった。
 大店はすでに近代経営に衣替えし、住み込みの店員がどんどん背広を着た通勤社員に衣替えして行く時代だったから、夜は表通りに近いほどひっそりとして、架線に青い火花を散らしながら、赤い灯火をつけた終電車が行ってしまうと、街は撮影所のセットのように静まりかえった。
 そんな中で、夜も人通りが絶えなかったのが、歩いてものの10分ほどの人形町・玄冶店・水天宮界隈だった。特に人形町には、もう都内で10軒を割っていた寄席の1つ、人形町末広亭があって、近隣の老若男女に夜の愉しみを供していた。まだ、テレビのある家は少なかった。
 末広亭には繁く通った。戦災で焼け残った二階建ての入母屋。客席は、早い時間など空いている時は、寝そべることだってできる畳だった。
 毎年、暮れの28か9日に「川柳鹿連会」という真打ちばかりの競演会があって、顔ぶれが豪華そのもの。文楽、志ん生、円歌、円生、柳枝、そして小さんや三木助が名を連ねていた。
 どこか端麗な風格があって、聴く方も居住まいを気にしたくなるような文楽に比べ、志ん生には軽妙な笑いと哀愁、そしてたまにドキリとさせれるような諧謔が、体臭となって漂っていた。出囃子で現れるだけで、なぜか笑いが起きた。
 ある晩、トリで出て来たが一杯機嫌。マクラの小咄に入る。マクラには即興が多かった。
 旦那が酔って妾宅に通って来る。ヤキモチ焼きの愛人がすねたり、なだめたりがあって旦那は眠くなる。若いころ、旦那に悪い病をうつされて、愛人の片目は義眼だ。寝しなに水を入れた湯飲みに義眼を沈めて眠る。──夜中、喉が渇いて目が覚めた旦那、湯飲みの水を義眼ごとゴクリ。
 腹の中を見て歩く目玉。「あれ、こんな所に浮気の玉が2つ。1つはアタシの。で、も1つは?。エエイッ」と噛みつく義眼。旦那の悲鳴。「や、やめな。残った目玉も潰れる」。
 そしてひとこと、「これでお終い」と言って引っ込んでしまう志ん生。それでも、客を沸かせた。名人だった。 (;)