敵国語を学ぶ2005年05月13日 07:42

 前の戦争の話だ。どうやら海軍の方が、陸軍よりも科学的合理性に長けていたように思える。フィリピン戦線の従軍記録などを読むと、陸軍では野砲の弾丸のサイズや仕様が数種類あって、弾があっても撃てないとか、砲があっても弾が合わないということがしばしばだったという。
 そこへ行くと、機械の塊である軍艦そのものを基幹の武器とする海軍には、妥協が許されない科学合理性が要求され、銃砲をはじめ武器の規格にすこぶるやかましかったそうだ。
 父は、大和や武蔵の主砲を造った海軍の軍需工場に勤めた。基礎となる技術は、イギリスやドイツから学んでおり、戦争中でさえ国際的な技術交流は絶えなかったと聞く。海軍の40サンチ砲の弾丸には、徹甲弾、榴弾、榴散弾など、さまざまな性能別の種類があったが、40サンチ砲であるかぎり、どの砲でも支障なく撃てたという。
 もう一つ大きな違いは、情報についての考え方だったそうだ。戦況についてさえ、兵器の調達先である軍需工場の幹部社員には、かなり早くから詳細な情報が伝えられていたようだ。
 戦後になって父が明かしたが、ガダルカナルの友軍に物資を補給するために、ドラム缶に食糧や弾薬を詰め、夜陰に乗じて沖合で潜水艦から放出していたとか、戦艦武蔵を失った1944年10月のレイテ湾海戦で、海軍の敗戦は事実上決定的になっていたことを、民間を信じて明かしていたという。
 考えてみれば、一つ艦艇で運命を共にする人間の間に、作戦上の高等機密は別として、日常の情報に浸透のばらつきがあっては、組織が有機的に機能するわけはない。船暮らしが生む発想が、ここにある。
 海軍兵学校では、敗戦まで英語を教えた。戦は勝っても負けても「究極の外交手段」であり、最後の提督・井上成美校長らの「敵国の言葉も知らずに闘うのは国家の戦争ではない」という考えを活かしたものといわれる。まことに説得力のある考え方ではないか。
 ビジネス競争に活かそうと、旧軍の組織やシステムに学ぶ企業は多いが、最も推奨すべきは、外へ開いて広く情報を求め、内に情報共有を極限まで求めようとした海軍の基本姿勢であろう。(;)