衰えた連帯感2005年07月21日 08:23

 私たちのほとんどが、牛肉を「食材」としてしか意識していない。グルメ・ブームとやらで、いかに美味くて値ごろな牛肉料理にありつけるかを、熱心に追ってはいる。しかし、牛肉が牛の肉体の一部として、どのように「製造」されているかを、敢えて知ろうともせず、知る術も乏しい。
 もともと、人間はバチ当たりな生き物である。他の生き物の生命を奪って、己が生命を養って行かざるを得ない。ただ、今の人間は、人間がそういう滅相もない生き物であることを、深くは自覚せずに生きている。自覚があれば、メディアはグルメ情報より、畜産や養鶏の実情を報ずるはずだ。
 人間が食べるものは、動物でも植物でも、必ず「殺す」という過程を経る。だが今の社会は、その部分を分厚いカーテンで覆っている。そして、人々の多くが、牛や豚・鶏に、生き物として接したことがない。まして、彼らがどんな飼われ方をし、どんなエサを与えられているかを知らない。
 かつて、地方の暮らしでは、裏庭で飼っていた鶏や兎を、遠来の客をもてなすために屠ることは珍しくなかった。子供たちはそれを目撃して、生き物の哀れと、自分たち人間の逃れられない罪深さに目覚めた。それだけに、食べ物に対する感謝も、心底からのものであった。
 一方、社会の専門化・分業化は進むばかりで、よその分野で何が行われているかを、互いが知りにくくなっている。だが、あらゆる専門・分業は、それぞれ互いに連帯している。農業や畜産も他産業に繋がり、個々の市民に繋がっている。それなのに、人々の社会連帯感は希薄になるばかりだ。
 消費者が知らぬ所で、生き物を扱う専門家が、最も利の厚い牛肉・牛乳を、最も効率よく製造することに没頭する余り、牛に牛を喰わせるという究極のバチ当たりに走って、社会の連帯を傷つけてしまった。加えて、消費者でなく業界の側に立った行政が傷を深くした。さらに、専門業界の実態を、勇気をもって社会に知らせ、その是非を問うことが使命であるマス・メディアが、十分に機能せず災いを広げた。BSE禍は、社会連帯より利己的な経済利益を優先する「モノ・カネ時代」の産物にほかならない。(;)