クルドの運命2006年05月09日 08:39

 クルドの友人は一人としていないが、この民族の運命を識るにつけ、胸が痛む。ここでも、大国の介入で引き裂かれた民族が、絶望的な流血の歴史を刻んでおり、民族主義が野に放たれた今、独立を求める動きが活発化したことに伴って、血と硝煙の匂いが濃厚に漂い始めた。
 トルコ、イラク、イランにまたがる高原地帯は、紀元前2400年ごろに栄えたグティウム王国を起源とし、古くから「クルディスタン」と称するクルド人の祖霊の地である。古く1639年、トルコとイラン(ペルシャ)の国境画定の際に、クルディスタンは二分され、長い長い民族統一の闘いが始まった。
 第一次大戦で、オスマン・トルコが与したドイツが敗れたため、1920年8月、戦勝国の英仏とトルコの間で交わされた「セーブル条約」で、トルコ領内のクルド人は、いったん独立を認められた。しかし、それもつかの間、1923年にトルコ近代化の祖ケマル・(パシャ)アタチュルク率いる共和国が誕生し、トルコに苛酷だった「セーブル条約」を改訂した「ローザンヌ条約」によって、再びトルコに吸収される。おまけに、英仏などの身勝手な国境画定によって、「クルディスタン」はトルコ、イラク、イラン3国と一部シリアに分割される結果となった。
 クルド人は、イラン語に近いクルド語を話し、大多数がイスラームのスンニ派の一派。多くが羊、山羊などの牧畜や農業に従事する。分断後も、言語・宗教の同一性からねばり強い統一・独立運動が続けられた。
 特にイラクでは油田が発見されたキルクークなどからクルドの駆逐を図ったサダム・フセイン政権への抵抗運動が、1960年ごろから激化、88年には、「イラク侵攻作戦」の大義名分になった、毒ガスによる「ハラブジャの5,000人虐殺」など、イラクのクルド殺戮が相次いだ。
 湾岸戦後の92年、フセイン政権は国際世論を容れて「クルド自治区」を認めた。しかし今回のイラク戦争後、米国が後見するイラク新政権がクルド優遇に傾斜したため、イランとトルコが、近接3国内のクルド人の統一・独立への連携を恐れ、先月末から、協調的な弾圧を始め、また血が流れ始めた。(;)