新聞の史観(30)2006年10月05日 08:05

 いずれは韓国を開国に導き、日本の利益に活用しようと考えていたのは、征韓論派だけではなかった。当時の韓国王朝は、高宗皇帝の父・大院君と、皇帝の妃・閔妃(ミンビ)の両派が、国政を巡って事ごとに対立、内紛が絶えなかった。日本政府は、この混乱につけこむ隙を狙っていた。
 どうやら「雲揚」の行動は予定されていたらしい。現に事件の年6月にも、「雲揚」は朝鮮半島東岸を北上して示威行動をしている。江華島の草芝鎮砲台を反撃破壊した「雲揚」は、近くの永宗鎮も砲撃、さらに陸戦隊を上陸させて、兵士や民間人を殺傷、武器弾薬等を略取した。
 先に発砲したのが韓国側だったのは争いのないところだが、「雲揚」の行動は明らかに過剰防衛である。しかし日本政府は、事件を好機と捉えた。翌1876年1月早々、全権大使に黒田清輝、副全権に井上馨を指名し、軍艦数隻を伴わして韓国に送り厳重に抗議、責任を問う。
 砲台の韓国軍は、国是の「攘夷」に忠実だっただけなのだろうが、大砲の射程距離に大差が出来てしまった時勢に、李王朝の韓国は逆らえなかった。結局、日本の圧力に屈し、76年2月、12カ条からなる「大日本国大朝鮮国修好条規=江華条約または丙子修好条規」を結ぶ。
 条規の要点は、1)韓国は清との「宗属関係」を断ち、独立国として日本との国交を開く。2)釜山・元山・仁川の3港を開く。3)京城に日本公使、各開港場に日本領事を駐在させる。4)在韓日本人の領事裁判権を認める。──というものだった。条規では、江華島事件の賠償は問わず、要するに日本が欧米列強に締結を強いられた「不平等条約」を、右にならえと押し付けたのだ。
 似た事件があった。幕末、朝廷の攘夷令を奉じた長州藩は、1863年6月、下関海峡を通る米仏蘭の艦船を砲撃する。すでに幕府は開国を約していた。翌年9月、英国を加えた4カ国連合艦隊は、攘夷派の急先鋒長州を沈黙させようと報復に来る。長州は全砲台を撃破され、上陸した陸戦隊に占領される(下関事件=馬関戦争)。この時も、長州の砲弾は敵艦隊に届かなかった。(;)