新聞の史観(43)2006年10月24日 07:58

 李鴻章を驚愕させた日本側の停戦条件とは、◇遼東半島の北、遼東湾から渤海に至る中国本土沿岸の山海関・秦皇島・唐山・塘沽の各都城の無血占領。◇これらを結ぶ鉄道の管理運営権の日本への移譲。◇講和条約成立までの停戦中の全戦費の清国側負担、……といったもので、戦況の圧倒的な有利に立った、あからさまな恫喝であった。
 対面を重んずる中国側は、「日清両国の恒久平和を期するなら、清国側の名誉にも配慮して欲しい」と訴えて交渉は頓挫したため、3日間の休会を設けた。
 ところが、ここでハプニングが起きた。談判が休会に入った3月24日、輿に乗って移動する李鴻章を、1人の暴漢が短銃で狙撃した。弾丸は李鴻章の顔をかすめ、傷を負わせる。
 おかしなことに、それまで李鴻章を、日本に仇なす清帝国の総帥として、さんざん批判していた新聞が、にわかに日本側の警備の不備や暴漢の無謀さを責め、中には李鴻章への同情論まで現れた。それというのも、和平交渉に滞日中の外国顕官を暴漢の襲うにまかせたことが、列強の介入に格好の口実を与えはしないかと、政府が裏で動いたらしい。
 結局、日本政府は渋る軍部をなだめて、無条件の停戦に応じ、95(明治28)年4月17日、「日清講和条約」が調印された。要点は、1)韓国の完全独立、つまり「清朝宗属関係」完全解消の確認。2)遼東半島・台湾・澎湖島の日本への割譲。3)銀2万両(邦貨換算約3億円)の日本への賠償支払い。4)清国が欧州各国と結んだものと同等の、特恵的通商条約の日本との締結。5)新たに蘇州・沙市・重慶の揚子江(長江)沿岸各港と、浙江省杭州の開港。6)日本に対する揚子江の航行権の譲与。6)清国内での各種製造業への日本人の従事容認、──などであった。(;)