新聞の史観(37)2006年10月16日 07:57

 韓国政府が、当事者能力を失って、内紛の解決を宗主国・清の軍勢に求めた、もう一つの例が1884年に起きた「甲申政変」である。
 2年前の反日軍事クー・デタ「壬午軍乱」は、日本と事を構えたくなかった清国側の計算から、扇動者と目された大院君を清国に連行して拘束し、同調者を極刑にして終わった。
 この結果、政権は再び閔妃一族の手に戻り、日本は「済物浦(チムルポ)条約」を結んで、軍隊の常駐権や賠償を勝ち取る。しかし、日本への警戒を募らせた清国は、「壬午軍乱」の後、韓国への宗主権行使を積極化し、閔妃派も次第に親清国に傾いて「事大党」と呼ばれるようになった。
 一方、清朝への従属をよしとしない開明派「独立党」の金玉均(キム・オクキュン=1851~94年)らは、明治維新に倣って韓国を近代化しようと、1884(甲申)年12月、日本軍の支援を得てクー・デタを起こす。たまたまこの年、清国はインドシナの領有を巡ってのフランスとの闘いに敗れ、国力の衰微を天下に曝した。「独立党」は、これを宗属関係打破の好機と見たのだった。
 金玉均らは、王宮を占拠して政府要人を殺害し、「独立党」政権の樹立を宣言する。しかし、彼らの天下は2日で終わった。清国軍は閔妃派の要請を受け王宮を襲って奪回、韓国軍兵士や反日的な市民が日本公使館を襲って火を放ち、館員や邦人を殺害した。金玉均らは日本に逃れる。
 この「甲申政変」によって、日本政府は「清朝宗属」を断ち切り、韓半島への清朝の影響を駆逐する決意を固める。建前上は、すでに韓国の開国を実現した1876年の「江華条約」で、韓国に「清との宗属関係を断ち、独立国として日本との国交を開く」と約束させてもいた。
 「甲申政変」の翌85年4月、全権大使・伊藤博文と、清国の北洋大臣・李鴻章(1823~1901年)を立てた「天津条約」によって、「朝鮮に重大異変が起き、中日いずれかに派兵の必要が生じた場合は、まず公文を交わし了解の上で実行」と、日本が清国に対等の地位を約束させたのだった。(;)