運転士の職務2005年05月09日 08:10

 4月25日朝、兵庫県尼崎で起きたJR西日本福知山線の速度違反・脱線・転覆・激突事故は、死者100人を超す大惨事になった。新聞・テレビなどのマス・メディアは、競ってトップ・ニュースに取り上げ、報道の焦点が、原因や背景の究明に及ぶや、同社の企業体質に批判を集中させた。
 メディアの袋叩きに遭ったJR西日本には、さもありなんと思わせる点が多かった。象徴的な例といえば、事故が起きる少し前に、同社大阪支社が約5千人の支社員に配ったという「支社長方針5項目」は、第1項が<稼ぐ>で、<安全輸送>は第2項だった。
 競合路線から乗客をさらうための超過密ダイヤ、コスト削減やスピード・アップをにらんだ車両の軽量化(つまりは脆弱化)、自動列車制御システムの軽視、カーブ地点での脱線防止ガード・レールの省略など、経営姿勢が収益本位に大きく傾き、交通機関として最も優先すべき「安全第一」の理念が、著しく疎かにされていたことがはっきりした。運転士の規律保全や育成への対策も拙劣だった。
 だが今日、経営効率を極限まで追求する手法は、他の業界でも広く行われ、経営力の評価基準にさえなっている。だから、事故をきっかけに明るみ出てしまったJR西日本の収益優先姿勢を、他人ごとと思えなかった会社員や経営者は少なくないはずだ。
 よく考えれば、ほとんどの事業が、人命の安全を最優先に据えることを求められている。鉄道や航空運輸はもとより、自動車製造、建設土木、医療、製薬、農業、農産加工、水産加工、ホテル・外食・レジャー産業などでも、この基本は同じだ。己が利益のために、顧客を犠牲にしてはならぬ。
 一連のJR西日本批判には、事故犠牲者への喪に服すべき時に、旅行や宴会、ゴルフ・コンペに興じていた社員がいたことを、連帯意識に欠けた不謹慎として、激しく非難するものが目立った。かさにかかった感が否めないが、是非もない。
 だが、事故列車に乗り合わせたが無事で、乗務を優先、職場に直行した2人の運転士を、死傷者を放置してと、一緒くたに責め立てたメディアの浅慮には驚いた。「勤務表」に従って職務を果たす運転士や車掌にとっては、何より勤務予定を優先させないと全体の運行業務が破綻する。犠牲者の遺族、負傷者、読者・視聴者の感情に気を奪われた、勇み足の批判だった。世論に圧された処分など、あってはならぬ。(;)

姿を消した聖人2005年05月10日 08:04

 世の中には、他人の名を利用して利益を得たり、地位を這い登ろうと図る手合いがいる。そして、利用されやすいのが、世間に信用され、権威とされている人物や組織である。新聞の社会面を見ていると、「有名人の名を騙り」とか「大手○○社の名刺でだまし」といった記事をよく見かける。最近も、ある宗教団体の名を利用した詐欺事件があった。
 この種の悪行には、警察沙汰にならないような、巧妙きわまる手口のものも多い。ここでも、利用されやすいのは、意外に銀行とか新聞社、役所の類だ。有名だったり、信用されたりしている組織や人間は、名声や信用を利用されて、思いも掛けず世の中に被害や迷惑を及ぼすことがある。それだけ、警戒が必要だ。
 かつて勤めていた新聞社に、一時期、「市井の善行」を賞揚する全社的な企画があった。支局に勤務していたころで、たまたま、Mと名乗る初老の男が、「地の塩の箱」運動と称して、街角に木製の小箱を置き、懐にゆとりのある者がカネを入れ、貧窮している者が自由に掴みだして使う、という互助の仕組みを広めたいので、紙面で紹介してくれと、木箱を携えて支局に頼みにきた。
 応対した先輩支局員のSが、ぞっこん惚れ込んで、美談仕立ての記事を何度か書いた。当然、運動に同調する者が増える。新聞の力だ。やがて、S先輩がMを「市井の善行賞」の候補に推薦しようと言い出した。
 入社して間もなくだったが、私は反対した。「孤独で、苦難の人生を歩み、この運動を始める境地に達した。あくまでも慈善活動の提唱・組織者だ」と語るMの言葉が、ウソ臭くてならなかった。
 「ホンモノなら聖人だが、彼が何で食べているのかが分からない。贈与でも貸与でもないカネのやりとりと、彼がどう関与しているのかも明らかでない」と慎重論をぶった。白髪混じりの長髪に、長いヒゲというのも気になった。少なからず勘だ。
 S先輩は、「君は若いのに不純だ。彼は純粋だ。現に、助かった人が箱に残した感謝の手紙も持って来て、見せているではないか。彼はホンモノだ」と、きかない。「そんなもの、誰が書いたのかも分からない」と突っ張ったが、結局、支局での論議は性善説が通った。
 Mは、めでたく「市井の善行賞」を受賞して"有名人"になった。そして、ある日突然、支局に訪ねて来て、「次の参院選に立つ」と、のたまわった。S先輩は跳び上がった。明らかに新聞が利用されかけていた。S先輩と支局長の懸命の説得で、Mは立候補を断念した。が、数日後、煙の如く姿を消した。(;)

ジープ2005年05月11日 08:30

 昼休みに校庭で遊んでいると、ドンと太鼓が鳴る。走っていようと、しゃがんでいようと、鉄棒にぶらさがっていようと、そのまま石のように静止することを命じられた時期があった。戦時中、北国の小学校でのことだ。
 幸い、校庭にはプールもなかったし、三段跳びの砂場もなかったが、泳いでいたり、跳んでいたりしたら、どうすればよかったのか。だが、この不可思議な「教育」の理由や、狙いの説明はなかった。おそらく、撃てと命じられれば、反射的に撃つ国民を作る教育だったのだろう。
 ひと月かふた月に1回、「視学」と呼ばれる偉そうな役人が、学校を視察にやってきて、その日は朝から先生たちがピリピリしていた。何であれ、上から言われた通りにすることが、理由の説明がないまま、組織にも個人にも押しつけられていた。不服従や、不合理への疑問提起などは、論外であった。こういう組織は、剛構造に見えても、実は組織全体がひと塊に大崩壊する危険をはらむ。
 ヨーロッパの戦線で、ドイツ兵が歩調を合わせて吊り橋を渡ると、激しい共振が起きて、橋が落ちそうになることがあったという。他方、アメリカやイギリスの小隊が渡ると、歩調はばらばらで、だらしなく見えるが、吊り橋はさほど揺れない。強靱な柔構造には、ある不共和性が必要なようだ。
 敗戦後、入ってきた進駐軍に、幼いながら目を見張ったのは、その機動力だった。ジープという、自動車の機能を絞り込んだ、しかし馬力のある四輪駆動車が、ぬかるみでも山坂でも、軽快に走り回る姿には、憧れのようなものさえ感じた。授業中の落書きは、ゼロ戦からジープになった。
 もっと驚いたのは、大小の車が、多様にそろっていたことだった。モーターでワイヤーを巻き取る牽引機を備えたトラックもあった。中でも感心したのは、頑丈な骨組みにブレードと称する「土掻き鉄板」を付けた「モーター・グレーダー」 という地ならし機で、これでジャングルの伐採地に飛行場を作ったと聞いて、敗戦の図式が呑み込めた。1時間で6千平方メートルを平地にすることができたという。
 叔父は海軍の技術将校で、海南島の飛行場建設に当たったが、機械化の点では戦争にならなかったと言った。アメリカでは1878年に、最初のグレーダーができていた。そんな相手と敢えて戦ったのだ(;)

続・運転士の職務2005年05月12日 08:16

 兵庫県尼崎で起きたJR西日本の大事故について、5月9日のこの欄に、「運転士の職務」と題して書いたところ、友人たちから、さまざまなご意見が寄せられた。
 拙文の要旨は、「大惨事の背景には、あまりにも収益本位に傾いた経営姿勢があり、犠牲者への喪に服すべき時に、旅行や宴会、ゴルフなどに興じていた社員がいたことを含めて、激しく非難されたのは是非もない」とした上で、「事故列車に乗り合わせたが、乗務を優先して職場に直行した2人の運転士の行動は、全体の運行業務を守ることためには当然で、死傷者を放置して、と一緒くたに責めるべきではない。世論に圧された処分など、あってはならぬ」というもの。
 これに対し、2人の運転士の行動を支持し、「よくぞ書いた」とする者が4、「やはり負傷者救出に加わるべきだった」と、筆者の判断に反対する者が3と分かれた。主要メディアの論調が、大きく影響しているようだ。舌足らずだった点を補いたい。
 巨大で複雑な組織を持つ事業体には、特定の要員に職責が任されていて、滅多なことでは他人に代わってもらえない職掌がある。
 この種の職場では、予定の「勤務表」を守って勤務することが優先され、急に休む"ポカ休"が重なったりすると、例えば鉄道やエア・ラインの場合、極端なケースでは、要員に二重勤務を強いたり、運休が出たりして大混乱になる。だから、職分が優先される。
 事故列車の3両目には、出勤途中のNHK神戸放送局・小山正人チーフ・アナ(52)が乗っていた。車内で激しく投げ出され、肋骨を折る大けがをしていたが、携帯電話で局に通報、痛みに耐えつつ現場の様子を冷静に"ナマ中継"する一方、乗客が血を流し、折り重なって倒れている車内の様子を、ディジタル・カメラで写していた。迫真の画像は、駆けつけた前線取材車から全国にテレビ中継された。
 彼は、全てを済ませてから病院に向かい、全治1ヵ月の重傷と分かった。これが報道人の職分だ。運転士を批判するメディアとて、「そんなに元気だったら、けが人救出に協力すべきだった」などとは言うまい。だから、職分を守った運転士の処分など、あってはならぬと書いた。めいめいが職分を守って、世の中が滑らかに回る。(;)

敵国語を学ぶ2005年05月13日 07:42

 前の戦争の話だ。どうやら海軍の方が、陸軍よりも科学的合理性に長けていたように思える。フィリピン戦線の従軍記録などを読むと、陸軍では野砲の弾丸のサイズや仕様が数種類あって、弾があっても撃てないとか、砲があっても弾が合わないということがしばしばだったという。
 そこへ行くと、機械の塊である軍艦そのものを基幹の武器とする海軍には、妥協が許されない科学合理性が要求され、銃砲をはじめ武器の規格にすこぶるやかましかったそうだ。
 父は、大和や武蔵の主砲を造った海軍の軍需工場に勤めた。基礎となる技術は、イギリスやドイツから学んでおり、戦争中でさえ国際的な技術交流は絶えなかったと聞く。海軍の40サンチ砲の弾丸には、徹甲弾、榴弾、榴散弾など、さまざまな性能別の種類があったが、40サンチ砲であるかぎり、どの砲でも支障なく撃てたという。
 もう一つ大きな違いは、情報についての考え方だったそうだ。戦況についてさえ、兵器の調達先である軍需工場の幹部社員には、かなり早くから詳細な情報が伝えられていたようだ。
 戦後になって父が明かしたが、ガダルカナルの友軍に物資を補給するために、ドラム缶に食糧や弾薬を詰め、夜陰に乗じて沖合で潜水艦から放出していたとか、戦艦武蔵を失った1944年10月のレイテ湾海戦で、海軍の敗戦は事実上決定的になっていたことを、民間を信じて明かしていたという。
 考えてみれば、一つ艦艇で運命を共にする人間の間に、作戦上の高等機密は別として、日常の情報に浸透のばらつきがあっては、組織が有機的に機能するわけはない。船暮らしが生む発想が、ここにある。
 海軍兵学校では、敗戦まで英語を教えた。戦は勝っても負けても「究極の外交手段」であり、最後の提督・井上成美校長らの「敵国の言葉も知らずに闘うのは国家の戦争ではない」という考えを活かしたものといわれる。まことに説得力のある考え方ではないか。
 ビジネス競争に活かそうと、旧軍の組織やシステムに学ぶ企業は多いが、最も推奨すべきは、外へ開いて広く情報を求め、内に情報共有を極限まで求めようとした海軍の基本姿勢であろう。(;)