多数決の弱点2007年02月21日 08:01

 集団内の個々人が抱く多様な意思を、集団の意思へ集約・統合する手段として、よく「多数決」が使われる。欧米型の民主社会では、テーマが政治であろうと、経済であろうと、はたまた裁判であろうと、民間の議事であろうと、多数決が基本である。
 だが、多数決が必ずしも最善かつ最も賢明とは言えない場合もある。例えば、「天国はあるか」といった論争に多数決を使うことは、ほとんど意味がないだろう。それは人々の心の中の問題であって、客観的な証明の方法もない。仮に票決をしたところで、信じる者と信じない者に妥協が生まれる問題ではないからだ。
 実証の方法がある場合でさえ、「天動説」が圧倒的多数派であった17世紀初頭に、科学的根拠を基に「地動説」を唱えたガリレオ・ガリレイが、宗教裁判の判決で地動説を放棄することを宣言させられた故事のように、多数派が真理を否定することだってあるのだ。
 私たちは、小学校のクラス委員を選ぶ時から、多数決に慣れ親しんで、多数決が絶対のように錯覚しているように思える。実は、多数決が最も有効に働くのは、個々人の切実な利害を調整する場合であって、それとて絶対に正しい結論を導き出せるとは限らないことを知っておくべきだ。
 例えば、一つの典型的な民主制議会を持つアメリカで、イラクへの派兵権限を大統領に認める決議を下院が行った2002年10月10日の投票では、賛成が296(うち民主81)、反対が133(うち共和7)であった。これに対し、4年半後の2007年2月16日の、大統領のイラクへの2万1千人増派策に対する賛否では、増派賛成が182(うち民主2)、反対が246(うち共和17)と大きく逆転している。
 この間、議会の構成も変わり、戦況も激変してはいる。だが、サダムの政権とアルカイーダに直接の関係はなく、イラク国内には大量破壊兵器が見つからなかったことで、大統領の侵攻理由が空言だったことがはっきりしてみると、多数決の重大な「弱点」を痛感させられないだろうか。(;)