怖い共謀罪(上)2006年05月01日 08:12

 これまで日本の刑法にはなかった「共謀罪」の新設を主な目的とする「組織的犯罪処罰法」の改正案審議が、国会で進行中だ。
 かつての「治安維持法」と同じように、司法当局の運用と解釈次第では、憲法に明記された思想・信条・言論・表現の自由を侵し、基本的人権が踏みにじられる恐れが強く、与野党ともに修正案を出して論議を続けている。
 「共謀罪」は、2000年11月に国連総会で採択され日本も署名した「国際組織犯罪防止条約」と、国内法に整合性を持たせるため、すでにあった「組織的犯罪処罰法」の第6条の2に、組織的犯罪の1つとして新たに規定しようとするもの。表向きは、麻薬や銃器の国際取引の規制である。
 話は飛ぶが、1998年8月7日、ケニアのナイロビと、タンザニアのダルエスサラームの米国大使館が爆破され、前者で210数人、後者で10余人が死亡、双方で4,000人を超す負傷者を出す同時多発「テロ」が起きた。
 米国は、これをウサマ・ビン・ラディンらが率いるアルカイーダが関与した犯罪と断定し、同8月20日、その拠点があるとされたアフガニスタン東部のホストと、スーダンの首都ハルツームを、ミサイルで報復攻撃した。
 以後の応酬は、2001年の「9.11」事件につながって行くのだが、「国際組織犯罪防止条約」が国連に提案された背景には、米英を主軸とする西側勢力が、イスラーム原理主義集団との「非対称の戦争」を、「国際犯罪集団のテロとの闘い」と位置づけている事情があるとことも認識しておくべきだ。従って「共謀罪」の新設は、わが国法体系に広義の戦時体制を持ち込むものと言ってもいい。
 刑法では、「実行するか、実行に着手する」以外では、「犯罪」と見做されない。なのに「共謀罪」は、「犯罪を共謀すること」自体を「犯罪」と定義する。すると、極端な場合、飲み屋の放談に、法案に示された「死刑又は無期若しくは長期10年を超える懲役若しくは禁錮の刑が定められている罪」に該当する「言葉」が含まれているだけで、逮捕・起訴される危険が残る。「新・治安維持法」と恐れられる所以だ。(;)

怖い共謀罪(下)2006年05月02日 07:55

 「共謀罪」の怖いところは、殺すとか、爆破するとか、毒を撒くとか、物騒なことを仲間内でうっかり口にしただけで、実行する気もなく、事実、実行しないでも、「犯罪」と見做される可能性がある点だ。刑罰は最高5年の懲役である。
 私たちは、会社の仲間や学校友だち、あるいは地域の仲間などで、ワイワイやっていると、ついつい、「殺っちまえ!」などと、かなり恐ろしい言葉を交わしていることがある。当初の政府案は、「共謀罪」該当の行為を、ただ「団体の活動として」と定義しようとしていたから、これは危険きわまりないと、日弁連なども反対に回った。
 結局、与野党の修正で「団体」をより明確に定義し、「組織的な犯罪を実行することを目的とする犯罪集団」といった形へ絞って行く方向のようだ。
 それでも心配は残る。最大の懸念は、法の条文の拡大解釈である。「犯罪集団」と見倣す、見做さぬの裁量は、初次的には警察・検察に委ねられる。そこに、大きな懸念がある。民族自決の闘争さえ、「犯罪」扱いされる恐れがあるのだ。
 例えば、欧米大国の御都合主義のせいで、祖霊の地を追われたパレスチナのハマスのような"過激派"は、「組織的な犯罪」と見做せば見做せる「テロ」の手段を使って、イスラエルと「戦争」をしている。この闘いには、世界的にも同情する者は多い。
 もし日本国内で、精神的、あるいは資金的にハマスを支援するグループが、国際的な連帯活動をした場合、政府の外交政策や司法の裁量次第で、「組織的な犯罪」と見做されかねない。すると、民族自決は「犯罪」になってしまう。
 とにかく、実行段階にない犯罪が「犯罪」になるのでは、頭で考えていることまで立ち入って捜査されることすらあるだろう。盗聴や密告はザラになりそうだ。第一、脳ミソの中まで探られるのでは、戦時の刑法だ。
 日本の場合、こうした組織犯罪には、現行法で充分対応できると主張する法律学者もいる。耐震設計欺罔事件の面々が、別件逮捕された例を見ても、司法の裁量権は怖がって当然である。(;)

クマとの同居2006年05月03日 07:50

 4月17日のこの欄をお借りして、わが上野動物村で進められていると伝えられました、クマと小動物の同居ばなしについて、皆さんに取り急ぎご報告し、恐怖におびえていた私どもの気持ちを訴えた私、タヌキのタンです。その節は、たいへんお騒がせしました。
 新しいクマ舎の完成に合わせ、「クマとタヌキなどを同じ区域に放し、緊張感ある野生の姿を再現することが狙い」とA新聞が伝えたこの新方式は、すでに4月28日から実施に移されています。
 しかし「同居」の仕方が、実際は新聞報道とは少し違いましたので、再びこの場をお借りし、お礼かたがた、現状をご報告申し上げます。私どものような小さな生き物を慈しんで下さる皆さまが、村役場に続々と電話を掛け、「考え直せ」とおっしゃって下さった由。心から感謝しております。
 この一大事を、A新聞の4月12日の夕刊で知り、私に急報してくれたネズミのチュー太夫妻は、「そんな風には、書いてなかったけどなぁ……」と、今もいぶかるのですが、実際は、私ども小動物がクマ公と鉢合わせしないよう、同居エリアの一隅に、私どもしか通れない仕切りが作られたのです。この仕切りは、2ミリアンペアの弱い電流が流されている「電柵」なので、仮に日中、クマ公が私どもに手を出そうとしても、ピリピリッと来て退散させられる寸法です。
 結果として私どもは、夕方、クマ公が寝小屋に入れられた後は、この仕切りから同居エリアに散歩に出て、夜明けまで走り回れるようになりました。もともと私ども、昼間はいつも穴グラで寝ていて、暗くなってから動き出す「夜行性」ですので、クマ公たちとうまく「同棲」できるってわけです。
 発端の記事では、「クマが近づいて小動物が逃げる姿を、人間たちに見せたい」と言ったとかいう課長や、園長を非難する投書が、A紙にも"殺到"したとか。その1通が、4月25日の朝刊投書欄に載り、29日の同じ欄には園長の回答が載りました。どうやら初報で伝えられた「同居」の仕方と、実際とが違ったみたい。なら、なぜ「投書」に委ねず、「続報」で伝えてくれなかったのでしょうね。(;)

やり過ぎだ米2006年05月04日 08:28

 日本メディアのワシントンからの報道に、いささか隔靴掻痒の感を免れないテーマの1つが、米議会でのイラン制裁立法の動きである。
 下院本会議は、4月26日、「イラン自由支援法=The Iran Freedom Support Act」案を賛成多数で可決し、法案は上院に送られた。この法律案は、今年8月で失効する「イラン/リビア制裁法」に代わるものとして、イランの核兵器開発の阻止を狙った経済制裁策を成文化しようとするもの。大統領府から漏れて来る"イラン侵攻切迫"の情報と相まって、その行方には目が離せない。
 というのも、「イラン自由支援法」の目標が、イランの核兵器開発や人権抑圧・イスラエルへの威嚇などを阻止するため、イランの石油・天然ガスなどのエネルギー開発に対する第三国の投資を規制することにあるからだ。
 具体的には、イランのエネルギー関係資源に一定額以上の投資を行った第三国の企業や政府機関に、アメリカの政府機関との取引を禁止するとの条項を盛り込んでおり、定額は2,000万ドルと想定されている。
 ところで日本は、輸入原油の約16%をイランに依存しており、加えて2004年2月、国際石油開発(株)が、推定埋蔵量260億バレルと中東で最大級という同国南西部のアザデガン油田の開発権益の75%を獲得、総額約20億ドルを投入しようとしている。問題なのは、この法律の主な規制対象に、このプロジェクトが想定されている点だ。
 ブッシュ政権は、すでに日本に対し、政治的判断によるアザデガン計画の断念を迫っている。中国は、これを承知の上で、間もなくイラン政府と石油と天然ガスの開発をめぐる総額約1,000億ドルに上る契約を結ぶと4月末に公表し、米国を苛立たせている。
 目的が何であれ、資源大国が資源小国を縛る、米国のやり方は公正と言えるだろうか。やはり、やり過ぎだベィ。(;)

情の薄い首相2006年05月05日 08:20

 欧米、殊に米国では、政治家が人前で涙を見せることは禁物とされている。それだけで、指導力の弱さを露呈したことになり、政治家失格なのだという。
 とりわけ大統領のように、前途有為の若者を平然と、あるいは平然を装ってでも、戦場へ送らなければならない、または、敵味方を問わず何百万の人間が消滅し、被曝する「核のボタン」を携行して、押す、押さないの決断を瞬時に迫られる立場にある政治家にとって、涙など冷静な判断の敵であると考えるのは解らぬでもない。そういえば、時々、情動を露わにするジョージ・ブッシュ・ジュニアでさえ、涙を見せる場面だけは、見たことがない。
 わが小泉純一郎首相もまた、強いアメリカが大好きなせいか、強くなれよの家庭教育の成果なのか、公の場で涙を流すのを、ついぞ見せない。ま、それはいい。しかし、見せようにも、心に涙がないのではと思いたくもなるのが、彼の北朝鮮拉致被害者家族に対する、そっけない態度だ。私の記憶では、首相は家族らに、2002年に2度、それも短時間、事務的に会っただけのはずだ。
 その彼の姿勢を知ってか知らずか、盟友ブッシュ大統領が彼らに対する「情け」を行動と言葉で示し、日本人のかなりの部分にわだかまる「ブッシュ嫌い」をかなり払拭させるのに成功した。北朝鮮拉致被害者横田めぐみさんの母、早紀江さんと弟の拓也さんらをホワイトハウスに招き、じかに母親の悲しみ、被害者家族の嘆きと屈辱に耳を傾け、「無事戻って来るよう、私も毎日祈りたい」と、慰めと励ましの言葉をかけた(4月28日)。
 だが日本の首相は、引き裂かれた家族と親しく接し、苦しみを分かち合う心を、なぜか示さない。被害者の親は、みな高齢である。中には、わが子の帰還を見届けられずに亡くなった方もある。なぜ小泉首相は、彼らを官邸に招いてねぎらいの言葉をかけてやれないのか。拉致被害は、そもそも国家の責任だ。私人・小泉の心状は問わない。が、一国の宰相としての「情け」はないのか。(;)