新聞の史観(23)2006年09月26日 07:59

 親善を旗印に、「Great White Fleet」を遣わして来たアメリカだったが、その真のねらいは、急成長した海軍の誇示であり、人種偏見をむき出しに日本人移民を締め出し、満州をはじめ中国大陸の市場参入に政府・民間が相携えて攻勢を仕掛けて来る姿勢に、日本の指導者は警戒を募らせた。海軍が、"仮想敵"を米国海軍に設定したのは、自然の勢いだった。
 いわゆる「8-8艦隊」を海軍が要求し始めたのは、「Great White Fleet」の横浜寄港から3年後の1911(明治44)年である。「8-8艦隊」とは、艦齢8年未満の戦艦8隻、巡洋艦8隻を主力に、帝国海軍を最新・最強のレベルに保つという構想だった。
 しかし財政事情が許さず、ようやく1920(大正9)年7月の臨時国会で予算案が修正され、構想実現の目処がつく。だが、翌1921年の「ワシントン会議」で、米英日仏伊5カ国による「軍備制限条約」が結ばれたため、1922年早々、戦艦「尾張」など7隻が建造中止、完成していた「長門」「陸奥」の両戦艦と、航空母艦に改造された「赤城」「加賀」だけが残った。
 因みに、日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」=排水量15,140トン、30センチ砲4門、速力18ノット=も、この条約で廃艦に指定されたが、国民の間にそれを惜しむ声が強く、横須賀の岸壁にコンクリートで固定し、記念艦として保存された。曲折を経て、今日もその姿を保つ。
 日本海海戦後、当時世界最大・最強の英国製「三笠」の威力に学んで、各国が「大艦巨砲主義」に走り、1906年イギリス海軍が建造した巨大戦艦「ドレッドノウト=Dreadnought=《恐るべきものなし》の意」=排水量17,900トン、30センチ砲10門、速力21ノット=の世代から、同艦に匹敵する「弩(ド)級」艦、それを上回る「超弩級」「超々弩級」艦の建艦競争が始まる。 
 空母重視の米海軍を横目に、「大艦巨砲」に固執した日本海軍は、39,000トン、40センチ砲8門の「長門」「陸奥」、64,000トン、46センチ砲9門の「大和」「武蔵」へと突き進んで行った。(;)