新聞の史観(26)2006年09月29日 08:02

 治安の乱れや政権の当事者能力喪失によって弱体化した国家を、強国同士が示し合わせて侵略した帝国主義時代の図式は、「シベリア出兵」にも当てはまる。
 ロシア帝国が日露戦争で敗れたのには、前線の戦闘での敗退もさることながら、帝政転覆を図る社会主義者や無政府主義者に扇動された、民衆や兵士の蜂起が大きく影響した。日本が、欧州に送り込んだ陸軍大佐・明石元二郎(のち大将)らの秘密工作が、背後でこれを操っていた。
 ロシアの革命勢力は、日露戦後、厳しい弾圧でいったん弱まったが、1914(大正3)年に始まった第1次大戦の末期に盛り返した。1917年2月、兵士の反乱をきっかけに広がった混乱の末、同年10月、レーニンらが率いる「ソヴィエト」が実権を握って、世界史上初めての共産主義一党独裁政権を成立させた。新政権は、帝政を倒すと、単独でドイツと講和、戦線から離脱した。
 共産政権の誕生は、欧州列強を震撼させた。英仏は、これを機会に日米両国軍をシベリアに出動させ、長駆ロシア新政権を倒して、東からドイツを攻めさせようと企てた。だが、日本はこの誘いには乗らず、ひとまず北満に拠点を持ったロシアの反革命勢力を支援するに留めた。
 しかし、共産政権に対する敵意では一致した英仏米日の4カ国は、1918年8月、総勢24,800、うち日本12,000、米7,000、英仏計5,800人の連合軍をシベリアに派遣する協定を結んで実行に移す。この国際協定は、日本にとって「外縁防衛線」押し上げのまたとない好機だった。
 そこで、陸軍大将・寺内正毅率いる非政党内閣は、シベリアで革命政権と闘っていたチェコ軍への支援を口実に、なし崩しに73,000の大軍を送り、3カ月後にはバイカル方面にまで展開、列強各国の不信を買うとともに、革命派パルチザンの激しい抵抗を受けた。結局、列強が支援したシベリアの反革命勢力も赤軍に敗れ、1920年には各国が撤兵。残った日本も、軍民700人を惨殺された「尼港(ニコライエフスク)事件」などの悲劇を記録して、1922年、虚しく撤収したのだった。(;)