論議は自由だ2006年11月08日 08:07

 民主主義の「生命」とも言うべき大切な基盤に、「言論の自由」がある。それが今、この国の政治とマス・メディアの世界で圧殺されかけている。たいへん憂うべき、危険な状況だ。
 自民党の中川昭一政調会長が、10月15日のテレビ朝日の報道番組で、「わが国の核兵器保有の是非を論ずる議論は、あってもいい」と、ごくあたり前の発言をした。麻生太郎外相も18日、衆院外務委員会で核兵器保有の議論について意見を訊かれ、「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、いろいろな議論をしておくのは大事だ」と、これまた当然の答弁をした。
 2人とも、古く1968(昭和43)年1月、当時の佐藤栄作首相が国会で言明した、唯一の原爆被爆国として、核兵器を「持たず・作らず・持ち込ませず」の「非核3原則」を、守る立場にあることは認めている。それだけに、発言は重い。
 2人は、北朝鮮の核実験成功を受けて、この問題の「論議の必要性」を言っただけだ。国民の生命・財産を守る国権に関わりと責任を持つ政治家として、国家の危機に際しての、まことに真っ当な発言である。
 ところが、言論の自由を最も尊重すべき立場の政界とマス・メディアが、この2人を寄ってたかって非難し、核武装をめぐる論議そのものを封じ込めようと躍起だ。
 中川氏とは格別の"同志"とされ、氏を政調会長に据えた安倍首相までが、国会答弁で「わが国の核保有という選択肢は、一切持たない」などと言う始末。正念場で、面倒な論議を受けて立ってこそ「真の政治家」だ。首相答弁に落胆した国民は多い。
 先週末には、民主党の鳩山由紀夫幹事長が、「被爆国として、核廃絶運動を主導すべき日本の外相が、こういう発言をすることに怒りを持つ」と述べて、外相罷免の意向を示すに及んだ。野党ばかりか、与党の親中派議員までが"封印"に同調する。政治家の思考・態度とは、とうてい思えぬ。
 新事態に即した核防衛の是非論さえ閉ざすのは、常に事実を見据え、現実をあるべき方向へ導くのが使命である政治家やジャーナリストが、最も避けるべき怯懦ではないか。
 時は流れ、国の環境も変わる。政治は、高い理想を掲げつつ、常に現実を論ずる場だ。臆せず、冷静に、堂々と論議すべし。(;)