食い物の恨み2006年12月08日 08:01

 一昨年の秋、他界した新聞社の先輩Mは、何か気に入らない時、普通は「ちくしょう!」と怒鳴るところを、「ひゃくしょう!」と罵声を発するクセがあった。農家出身者でなくとも、聞いて感じの良くない怒声である。まして、新聞記者の口にすべき怒罵ではない。
  二人だけの酒の席で、なぜ「ひゃくしょう」なのかと、訊ねてみた。すると、Mは急に景色ばんで、「とにかく、あいつらは一生許せない」と、遺恨をまくし立てた。戦後の食糧難の日々、買い出しに行っては、乞食扱いされたというのだ。
 同じような話は、よく聞いた。農家には、農家なりの事情もあったのだろう。どだい、縁もゆかりもないよそ者に、供出を免れた貴重な食糧を、簡単には渡せなかったはずだ。ひどいインフレに加え、極端な日用品不足だったから、新円や晴れ着を受け取っても、大した役には立たなかっただろう。
 それにしても、空きっ腹を抱えた都会人が、遠い田舎の集落まで、コメよ、イモよと辞を低くして買いに来るのに、「無い。何も無い」の一点張りで追い払い、囲炉裏に掛かった大鍋からのいい匂いだけは嗅がせたり、わずか5升のコメの代償に、暗に貞操を求めたり、腐りかけた種イモを売りつけたり、地に落ちて泥まみれのトマトを売ったりと、非道な仕打ちをした農民は、少なくなかった。
 都会から親戚を頼って農家の離れに疎開したYは、納屋の軒先にずらりと列べて吊してある干し柿が食べたくてならぬ。母親にせがんで、母屋の主婦に頼んでもらったら、2個だけ分けてくれたという。ところが一夜明けると、何百と干してあった吊し柿は跡形もなく、どこかへ仕舞い込まれていた由。Yは、昔話のたんびに、この一件を目尻をつり上げて蒸し返した。
 律令の昔から、土に生きる民は苛斂誅求に喘ぐ生活を強いられた。明治維新後も、苛酷な小作制度が農民を苦しめた。建前では士農工商と、士に次ぐ地位とおだてられながら、兵士として親兄弟の命を捧げ続けた。その祖国が敗れてやっと、占領軍の強権によって、先祖代々の夢だった自作農になれた家が多い。
 農民の意地悪は、積年の恨みの表れでもあっただろう。だが、都会人の食い物の恨みも、暮らしの歴史に残した。(;)

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