捕虜収容所跡2006年12月11日 08:05

 藤沢の、時宗総本山・遊行寺の脇に住んでいたころだ。昭和27(1952)年、高校3年だった。坂道の歩道を歩いていたら、いきなり脇にジープが止まった。例の、と言っても今の人にはピンと来ないだろうが、幌だけをつけた車から、脚の長い白人の米兵が2人、降り立った。
 1人は将校で、サングラスを掛けたまま、英語を話せるかと訊く。「少し」と答えると、「戦時中、この辺に捕虜収容所があったはずだ。そこへ行きたい」と言う。そして、「自分は、そこに収容されていた」、と続けた。
 戦争中は藤沢に住んでいなかったから、知る由もない。米兵が、高校生と立ち話を始めたのを見て、ゾロゾロと人が集まってきた。当時の日本人は、今よりもっと物見高かった。
 私は、誰に向かうでもなく、「戦争中、この近くに捕虜収容所がありましたか?」と訊ねた。皆、黙っている。それが、知っている証拠だと思った。
 人々の中には、知っていておかしくない年配者もいる。へたに喋って、何かまずいことになってもと、黙っているのだ。なかったら、なかったと言うだろう。
 と、50歳がらみの小柄な婦人が、「あそこの角を曲がってさぁ、火の見の先を左に曲がったところにあったはずだよぅ」と、小声で言った。
 米兵に通訳すると、「それだ。間違いない。君も来てくれ」と言う。この時、初めてジープに乗った。妙に嬉しかった。道すがら、「英会話は、どこで習った?」と訊くから、小学6年の時、進駐軍の将校が週2回、学校に通って来て教えてくれたと話した。
 あった。朽ちてはいたが、山を背にした長屋に似た建物や、「機関銃があった」というトーチカ状の監視所跡も残っていた。将校は早口に、往時を連れに語った。
 横浜方向に帰る時、家の前まで送って来て、Hersheyの板チョコを2枚くれた。「礼だ。Study hard !」と。(;)

コメント

_ Luke ― 2006年12月24日 20:18

●竹庵さま、
 ご無沙汰いたしております。
 ご健勝でなによりです。

 私も子供の頃に、進駐軍が間近におりましたので、なんだか懐かしいような、複雑な気持ちです。ハーシーのチョコレートはもらったことがありませんが、確かリグレーのチューインガムをもらったような、かすかな記憶があります。戦争は、そう遠い昔のことではなかったのですね。

_ 竹庵(Luke様へ) ― 2006年12月25日 08:33

 Luke様。お久しぶりです。押し詰まりましたね。
 進駐軍が入ってきた時、私が一番驚いたのは、彼らの印刷技術の高さでした。ガムやチョコ、煙草の包装の美しかったこと、『LIFE』とか『Esquire』といったカラフルな雑誌の、湯気を出し、ジュージュー音を立てていそうなステーキや七面鳥の写真に、生唾を呑んだものです。

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