気骨の言論人2006年07月25日 07:01

 一時期、親交があったり、仕事で世話になったりした間柄でも、互いにリタイアしてしまうと、つい疎遠になって、つき合いが年賀状程度の淡いものに細っていく。ただ、盆や彼岸の墓参で本堂に詣り、仏殿で瞑目合掌しながら、時を追って先達の面影を思い浮かべていると、不意に久しく会っていない旧知の顔が浮かぶことがある。そんな時、にわかに気になって電話をすると、家人が出て、「実は、……」と、過日、他界されたことを聞かされ、仰天することが希ではない。そんな歳だ。
 寺川雄一氏の場合も、そうであった。盆明けの先週末、電話をしたら6月7日に亡くなっていた。つい数日前まで、奥さんとダンスを楽しんだりしていたというのに、急に高熱を発し、2日ほどで肺炎から敗血症を起こした急逝だった。享年79歳。今日、四十九日の法要が営まれる。
 大分県国東の「米屋」という、古い旅館の5男3女の四男に生まれた。子どものころからキカン坊だったそうだ。水泳や柔道で鍛えた体に自信もあり予科練を志したが、意外にも視力に問題ありと不合格。海軍経理学校に生徒として籍を置いていたが敗戦。戦後は、慶應義塾での勉学を目指したが断念、代議士の秘書をしたり、某財界誌に勤務したりした後、昭和39(1964)年に37歳で国際経済社(のち国際評論社と社名変更)を起こし、雑誌『国際評論』を主宰する。
 時事の政治経済や産業界の問題、特にいち早く台湾や東南アジアの経済に目を向けた特集などで、政財界の玄人筋に好評を博した。日本経済が、高度成長路線に乗って急上昇するころで、戦後派のサラリーマン重役らに、企業万能・カネ万能の慢心が育って行った時代でもあった。
 氏は、これを許さなかった。どんな大企業であれ、ひるまずに筆誅を加えた。悪徳証券、羊頭狗肉の製薬、公害垂れ流しの化成、社長の道楽で資産を散じた百貨店、……。体調を崩し、平成14(2002)年に筆を擱くまで、時には狙撃に備え防弾チョッキまで着て「正義の筆」を揮った。
 長身痩躯。滅多に語らぬゴルフはシングル。老いてなお、客気を秘めた気骨の言論人であった。(;)