新聞の史観(9)2006年09月06日 07:23

 「ヴェルサイユ条約」に基づく第1次大戦後の世界新秩序を具体化する目的で、1921(大正9)年11月~22年2月に開かれた「ワシントン会議」は、海軍を中心とする列国の軍備拡張競争に歯止めをかける「軍縮会議」としての面が強く印象づけられている。
 しかし、それと同等、あるいはそれ以上の目的だったのが、日本の中国大陸への勢力拡張を抑止する措置の構築だった。会議の主導権を握った米国は、英仏・ポルトガル・日本に比べ、中国大陸への進出に大きく出遅れていたこともあって、「経済活動の機会均等」などの公正原則をうたいつつも、実は日本の進出に歯止めを掛け、米国の市場参入に道を開く意図を秘めていた。
 会議は、米英日仏伊の5カ国による「軍備制限条約」、以上の5カ国にベルギー・オランダ・ポルトガル・中国を加えた9カ国による「中国問題に関する9カ国条約」など7つの条約を締結して終わったが、いずれの条約にも敗戦国ドイツと、革命政権樹立直後のソ連は加わっていない。
 「9カ国条約」は、米国が提案した、◇中国の主権・独立・領土・政権の保全、◇中国全土にわたる、各国の商工業上の機会均等などを掲げ、中国を主権侵害から庇護する原則を盛り込み、結果として、日本は山東省の権益放棄を声明する。だが、香港・マカオなどはそのままだった。
 米国は、日露戦争以後の日本の朝鮮半島・満州・中国への進出と、富国強兵策の推進に警戒感を募らせ、英国もまたロシア帝国の瓦解によって極東権益の競合相手が日本に置き変わったことを認識して、対日外交で米と協調するよう、方針を変えつつあった。
 このため、米英仏日4カ国の協議によって、太平洋の島々の領有権の現状維持を決めた「太平洋に関する4カ国条約」の成立を理由に「日英同盟」は廃棄された。
 このように、帝国主義下の国際社会におけるドイツ閉め出し、日本孤立化への、米英主導のお膳立ては着々と進んで行った。分けても、この会議での「軍備制限条約」は、日本人の多くに屈辱を感じさせる内容になった。(;)

コメント

_ とんこう ― 2006年09月06日 08:27

富国政策で、生めよ増やせよがうまくいった理由はなんでしょうか。
次男、三男以下は、行き場がなく満州等の開拓地に渡ったのではないでしょうか?

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