新聞の史観(10)2006年09月07日 08:05

 「ワシントン会議」における、米英日仏伊5カ国による「軍備制限条約」のメイン・テーマは、これら5カ国の保有主力艦の総トン数を、国別の比率で制限しようとする点にあった。大戦後の世界的な景気後退の中で、各国とも建艦競争に投ずる巨費が国民経済を圧迫しており、軍備縮小への願いに大差はなかった。
 だが、「ワシントン会議」での落としどころは、戦艦・巡洋艦など主力艦の保有比率を、総トン数で米10・英10・日6・仏伊各3.3とする、大国本位の現状維持協定だった。日本は、米英各10・日7を主張したが押し切られた。この結果、新世界の新興国アメリカが、遂に海軍王国イギリスに肩を並べる地位を獲得したのだった。
 だがこれでは、米英が連合すれば日本に対して20対6と、圧倒的な優勢となる。当時、国民1人当たりの年間所得差は、米720円対日60円と12対1。また、1922(大正10)年度の日本の政府予算15億6,000万円のうち、海軍費は4億9,000万円で約31%という数字が残る。これに対し、米国の海軍費は総予算の14%であったという。
 従って、10対6の日米主力艦比は、国力相応ではあった。しかし、「砲艦外交」がまかり通っていた時代である。日本海海戦で、海軍力によってロシアの重圧をはねのけた国民の記憶が新しいだけに、時の高橋是清首相、海軍出身で「ワシントン会議」の全権を務め、高橋から政権を引き継いだ加藤友三郎らの、海軍や国民の説得は、当然、容易でなかった。
 米英は、なおも日本の膨張に警戒を強めて行った。1927年には、ジュネーブに米英日の3国が集って海軍の補助艦艇削減を協議したが不調。1930年に再度ロンドンに集まり、補助艦艇の保有比率を米英各10・日7とする「ロンドン条約」を結んだ。条約批准に当たった浜口雄幸内閣に対し、軍部は「統帥権の干犯」を振りかざし、右翼が呼応して「超国家主義」の蔓延を招いた。(;)

コメント

_ とんこう ― 2006年09月07日 08:38

高橋是清は、2.26事件で殺されてしまいますね。

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