軍神の遺影(4)2006年07月06日 08:11

 1930年代後半は、世界の主要国が"臨戦態勢"で兵器の開発を競っていた時代である。軍用機の型式も足早に更新されて行った。「一式戦・隼」が実戦配備されるのを追って、中島飛行機では後継機の開発・生産が始まり、私が宇都宮に移り住んだ1943年当時の中島・宇都宮工場では、4枚ペラの「キ-84」の量産に移ろうとしていた。
 「キ-84」は、「四式戦闘機」・愛称「疾風=はやて」として戦場に送られた。「一式戦・隼」との最大の違いはエンジンの強力化だった。「隼」には、中島の開発した「ハ-25」型エンジンが搭載されていたが、「四式戦=疾風」には、ほぼ同じサイズの星形9気筒重列計18気筒の「ハ-45」型が据えられ、出力は倍の2,000馬力になった。 
 機械装置は、高度化し複雑になるほど生産がややこしくなり、保守点検も難しくなって故障も増える。「疾風」には、画期的な「ハ-45」型エンジンを積んだための脆弱点があったようだ。エンジンの機構が複雑だった。また、このようなエンジンには、ハイ・オクタンの燃料が必要だが、戦況の悪化とともに良質の航空燃料の確保は絶望的になっていた。
 不具合の原因は知らないが、中島工場の上空で試験飛行をしていた1機の「キ-84」が、突然「パン、パン」とバック・ファイヤー音を発して3kmほど離れた田んぼに急下降した。見ていた私たちは、走りに走って、胴体着陸した「キ-84」を取り囲み、着地の衝撃でへしゃげたプロペラや、泥まみれになった機体を目の前に見る興奮に震えた。
 なぜか、乗っていたはずの操縦士の姿はなかった。子どもたちがたどり着くまでの20分ほどの間に、近所の大人たちが助け出したのかもしれない。
 上空には、2機の僚機が低く旋回しながら、操縦士が風防を開けて身を乗り出し、腕を振って何かを叫んでいるのが、間近に見えた。声は聞こえぬ。だが、燃料引火、爆発を恐れて「離れろ!」と叫んでいたに違いない。が、そんな怖さなどは、つゆ知らぬ小学3年生、1943年晩秋の出来事だった。(;)

コメント

_ 佐山健二郎 ― 2006年07月12日 19:35

私は昭和17年1月、群馬県の中嶋飛行機小泉製作所で零戦や96式陸上攻撃機を制作しているところへ入りました。
 その後天山という艦上攻撃機や銀河などの検査をしていましたが、19年に土浦の海軍の飛行機の格納庫で、零戦52型を作っていましたが20ねん2月に艦載機の250キロ爆弾で大損害を受けましが、従業員は全員助かりました。
 1000メートル避難の命令が良かったのです。

_ 竹庵(佐山様へ) ― 2006年07月13日 00:01

 佐山健二郎様。 初めまして。ようこそ、ご来庵。
 中島飛行機小泉製作所というと、通称の太田ではないのでしょうか。昭和9年生まれの私よりも、6、7歳先輩の方と存じます。
 私も、何度かP-51の機銃掃射や、B-29の爆撃を受け、昭和20年7月13日の宇都宮の大空襲で、すっからかんに焼け出されました。今、使ってみると、「焼け出される」という言葉は、何だか変ですね。昭和期だけの言葉でしょうか。
 首尾良く艦載機の爆弾をかわされた由、本当にようございました。どうぞ、長生きして下さい。

_ Luke ― 2006年07月13日 06:28

佐山さま、

以前勤めていた会社が、中嶋飛行機の跡地に建てたものでしたので、在任期間中に2度ほど、工事中に爆弾が出て、避難騒ぎありました。実際に工場で爆撃を受けた方のお話しがうかがえるとは、驚きました。ご無事でなによりでした。

_ 竹庵(Luke様へ) ― 2006年07月13日 08:29

 Luke様。ナカジマ飛行機は、「中島」でなく「中嶋」が正しいのでしょうか。また「ナカシマ」ですか、「ナカジマ」ですか?

_ 佐山健二郎 ― 2006年07月13日 14:11

再度、追加です。
 教練が嫌いで、家計のことも考え高等工業を受けることを決心し、奮発して勉強し、
5年で広島高等工業の機械工学科に進学しました。
2)広島高等工業では工学よりも数学や物理が好きで、工業学校の先生を志望したところ、3年の担任教授の勝盛先生が学校に残り後輩の指導をしないかと進められたのですが友人が止めたらと言うので方針を変え航空機の会社を受けることにしました。
 学校に残っていたら原子爆弾で負傷か死亡したかもしれません。
 結局、群馬県の海軍の中島飛行機小泉製作所に昭和17年1月に就職しました。
3)小泉製作所では96式陸上攻撃機や、当時は最新鋭の零式戦闘機などを作っていました。
 私は検査部に所属し、艦上攻撃機の天山や夜間戦闘機の月光や横須賀航空技術工廠の設計の銀河などの機体の検査に従事しました。
 昭和19年10月には、私等は海軍の土浦航空隊の格納庫が疎開であいたので中島飛行機の土浦の若栗工場として疎開し、五二式零式戦闘機の製作の検査係長を担当しました。
 昭和20年2月に艦載機に度々襲われ最後に250kg爆弾でこっぴどくやられて
 幸い航空隊の立派な防空壕にいて、海軍の工場を護るために機関銃を打っていて襲撃の間際に避難した兵隊さんとも全員助かりました。
敗戦は間違い無いと思っていたのでほっとしました。
 他に硫黄島のP51戦闘機の襲撃に悩まされました。
 昭和20年8月に、本部の群馬の小泉製作所へ所用で行き帰りに会社のトラックに便乗して、かえる途中にトラックの中で航空燃料用のメチル入りかも知れないアルコールを焼酎代わりに振る舞われ空腹に流し込んだ所、すっかり出来上がって前後不覚になり、深夜のことでかえる場所が判らないので、運転手が下宿の遙か手前で土浦の海軍航空隊の所で下ろしました。
 中島飛行機の技術者ということで、泥酔して居ったのですが好意で泊めてくれたようです。
 ◆朝になり女子の事務員が出勤しているのを兵隊達が眺めて、アメリカの兵隊達に彼女等もやられるのだろうと嘆いているので、不思議に思いました。
兵隊達は朝になり敗戦を知らされていたのですね。
 将校の指令で敗戦の悔しさをお互いの往復ビンタで紛らわせているのを目撃しました。
 ◆二日酔いのままに、工場へ行ったら正午に重要放送があるので、最寄りの所へ行きラジオを聞けとのことで、借りている農家で、もう一人の社員と老夫婦で玉音放送を聴きました。一億玉砕とゆう不合理な標語が大嫌いでしたのでほっとしました。
4)終戦の翌年に松山工業学校(現在は松山工業高校)に奉職し昭和56年に退職しました。

_ 竹庵(佐山様へ) ― 2006年07月14日 08:42

 佐山 健二郎様。 たいへん参考になりました。私も、火の雨のように降ってくる焼夷弾の下を逃げまどった少年でしたから、軍も民間も差別なく死の危険に曝すものが戦争だと割り切っていました。
 それより、敗戦後も引きずったのは、なぜ戦争をしたのかの一事でした。戦前・戦中にいやというほど聞かされた、戦争の大義は、要するに「民族の自衛」と「東亜の解放」だったわけで、それがまるまる嘘であったとは、学ぶほどに、今なお思えません。あの戦争で裁かれるのは、日本だけだったのでしょうか。
 佐山先輩は、戦争中に何のために戦っているとご認識でしたか。その辺をお教え頂きたいと存じます。

_ 佐山健二郎 ― 2006年07月14日 11:38

満州事変から配属将校が中学で満州は日本の生命線だといい、天皇の悪い事は知っていたのに、資源獲得で軍も一般の人も天皇も欲惚けで、反対すれば治安維持法で捕まりました。
天皇は12月8日に開戦を反対したら生命が危ういなど告白録で言って居ますが、陸軍は絶対大丈夫、海軍も山本元帥も1年は大丈夫など、天皇は大丈夫で決意しましたね。一般国民はビックリで、負けだしたら一億玉砕で天皇だけ残るなど憤慨しましたね。アメリカのハーバード大学などで教えたハーバード・ビッグスは、世界で最も率直ならざる人物と言っていますね。
GHQに入れ智恵され、告白録を書いたのでしょう。

_ 竹庵(佐山様へ) ― 2006年07月14日 16:48

 佐山 健二郎様。 私が伺いたいのは、当時の貴方様が、何のために戦っているとご認識でしたか、国民の1人として兵器を作っておられましたか、ということです。
 すべては、悪い天皇と間違った軍の指導部に従うしかなかった、ということでしょうか。国体変革を企てる者を取り締まった「治安維持法」も、「普通選挙法」を成立させた国会が、ほとんど同時に成立させています。しかも一応、国民によって選ばれた議員によって構成された議会ででした。
 だとすれば、すべてを天皇と軍の責任に負わすのは、おかしくないですか。

_ Luke ― 2006年07月14日 17:25

●竹庵さま、
 うだるような暑さの一日でした。

 申し訳ありません。単なるミスタイプです。中嶋という知人がいるので、パソコンが記憶しておりました。

中島飛行機 ナカジマヒコウキ
第二次世界大戦前の軍用機メーカー。海軍機関大尉中島知久平(チクヘイ)が1917年(大正6)退役し、群馬県太田町(現太田市)に創設した飛行機研究所に始まる。・・・(日本大百科全書:小学館)

_ 竹庵(Luke様へ) ― 2006年07月14日 23:18

 Luke様。 お手数かけました。お勤めになっておられたという佐山様が「中嶋」と書かれ、貴方も同じだったので、あるいはと思ったのです。
 いや、今日は暑かったですねぇ。ついに書斎のクーラーを入れました。午前11時で34℃になったものですから。近年、気候が明らかに変です。

_ Luke ― 2006年07月15日 07:17

竹庵さま、

今朝も良い天気で、酷暑の予報。
会社勤めですので、出勤している間は良いのですが、自宅にいると暑さがこたえます。まだ我が家ではエア・コンを作動させていないのですが、昼も耐えられるかどうか分かりません。まだフィルタの掃除もしておりませんで・・

佐山さまのお話を読ませていただき、「銀河」のことが気になり、調べてみました。

「戦後、銀河設計陣の一人であった三木忠直は、初代新幹線「0系」の開発にあたり、銀河の胴体形態をデザインモチーフに用いたと証言している。なお、アメリカ軍により戦後接収された銀河が1機だけスミソニアン博物館に分解保存されている。(Wikipedia)]

YSー11もそうでしたが、戦時に培われた技術が戦後にも活かされていたことがよく分かりました。

_ 竹庵(Luke様へ) ― 2006年07月15日 08:21

 Luke様。 お暑いのにご出勤、ご苦労様です。スミソニアンの「銀河」は、何とか返還してもらえませんかね。こうした展示物を含めて、日本にもスケールの大きい航空博物館が欲しいですね。
 

_ Luke ― 2006年07月15日 17:58

●竹庵さま、
 お暑うございます。まだエア・コンは入れておりません。

 敗戦国側に、軍事に関係する資料が少ないのは致し方のないことなのかも知れませんが、技術の結晶としての飛行機などは、当時の姿を留める(できれば実際に飛べる)姿で、展示してほしいと思います。実物の零戦、隼、飛燕などを観てみたいと思います。

 決して、戦争が好きなわけではなく、一技術者として、です。

_ 竹庵(Luke様へ) ― 2006年07月16日 12:26

 Luke様。 全く同感です。技術は立派な文化遺産ですし、兵器には民族の歴史が篭められてもいます。

_ SUBARU応援します ― 2006年09月30日 21:57

スバルの車が好きです。亡き兄が重いハンドルのスバル1000に乗っていてスバル一筋だったのです。ところが最近トヨタの開発者がレガシーのように一つの車をじっくりと育ててみたいと書いているのを見ました。やはりスバルはすばらしいのです。

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