軍神の遺影(6)2006年07月10日 08:01

 「軍神」加藤建夫最期の空中戦は、英空軍の重武装軽爆撃機「ブリストル・ブレナム=Bristol Blenheim」との挌闘だった。1937年に一線配備された同機の生い立ちは、極めて興味深い。
 ブリストル・ブレナムは、もともと民間の自家用機として開発された。1896年5月創刊、今も続く英大衆紙『デイリー・メイル=The Daily Mail』を起こしたハームズワス(Harmsworth)家のアルフレッド(Alfred)、ハラルド(Harold)兄弟の、特にハラルドは大の飛行機好きだった。
 1940年5月に朝日新聞社の3代目社長になる村山長挙が同じころ、航空機の開発や航空事業に情熱を注いだのは、偶然の一致だろうか。村山の熱意は、今日の全日空の誕生にまで及んでいる。
 後に「ロウザミア卿=Lord Rothermere」に列せられるハラルド・ハームズワスは、1934年にブリストル社が開発中だった乗員2・乗客6人乗りの、双発・単葉・中翼の金属製自家用機を注文した。ハラルドには、旅客航空事業に参入する野心があったようだ。
 翌年、「ブリストル142」型として完成した自家用機には、速くて小回りが利き、広い客室を、という発注者の要求に応え、固定ピッチ4枚ペラを回す640馬力のブリストル・マーキュリーⅥ・星型9気筒エンジンが両翼に据え付けられた。ハラルドは、代金として破格の18,500ポンドを払っている。
 「ブリストル142」型は、1935年4月12日の初飛行で、当時の最新鋭複葉戦闘機で、高度4800mでの最高時速370kmを誇った「グロスター・ゴーントリット=Gloster Gauntlet」よりも、時速で50kmも上回り、「Britain First=大英1番」と名付けられた。
 この高性能に、空軍省が目をつけた。「Britain First」は、性能試験のため空軍への貸与を求められた。ハラルドはこれに応じ、空軍は同年、いきなり150機をブリストル社に発注、「ブリストル142 M」型として軽爆撃機への改造が施された。
 ブリストル・ブレナムは、以来「MK I」から1942年登場の「MK V=通称ビズリー=Bisley」までの改良型、計4,420機ほどが造られ、第二次大戦で大活躍した。(;)

軍神の遺影(7)2006年07月11日 08:02

 軽爆撃機に生まれ変わったロウザミア卿ハラルド・ハームズワスの自家用機は、1936年6月25日の初飛行から、43年6月の生産中止まで、実に22もの改良型式を生んでいる。
 初期の「MK I」には、当然ながら客室の代わりに最大約500kgの爆弾を搭載する弾倉が設けられた。その分、搭乗人員は操縦士、航空士兼爆撃照準士、射撃手兼通信士の3人に減った。
 初期の「ブリストルMK」シリーズは、前方射撃用の7.7mm固定機銃1基が左翼に、同じ7.7mm機銃が、胴体背面に設けられた掩蓋付きの回転銃座に1基据えられただけだった。
 しかし後のシリーズでは、実戦経験から学んだ教訓として、火器も防弾装甲もレベルアップされた。この改良で自重が増えた代償として、エンジンも初期の640馬力のブリストル・マーキュリーⅥ星型9気筒から、87オクタン価燃料使用での水平飛行時で725馬力の同XV星型9気筒に補強された。
 「軍神」加藤建夫の最期の一戦の相手となったブリストル・ブレナムが、どの型式のものか、今回、英空軍や関係のサイトなどを調べてみたが、的確な資料はが見つからなかった。
 だが、1942年当時にビルマ戦線に配備されていた可能性が最も高い「MK IV」型の標準装備では、左翼に前方射撃用の7.7mm固定機銃1基、胴体背面の掩蓋付き回転銃座に7.7mm2連装機銃が装備されていた。掩蓋は、緊急脱出時に外れる仕掛けだ。
 さらに、機首の"顎"に遠隔操作で水平方向に20度、上下方向に17度の転回が可能な7.7mm機銃が2基、後ろ下方に向けて設置され、この他にも機首やエンジンカバー、尾部などにも7.7mm機銃を備えた機体もあったという。
 対する「軍神」座乗の「隼」は、機首の左右に12.7mm機関砲2門を備えるのみ。つまり、火器に限って言えば、前後左右上下に応射でき、防弾性能にも改良を重ねたブリストル・ブレナムは、「日本機を見たら、逃げるだけ」という、開戦当初の劣勢を脱していた。
 一方の「隼」は、依然として後方からの射撃しか手はなく、かつては優位だった後ろ下からの攻撃にも応射を浴びる形勢に変わっていたのだ。(;)

軍神の遺影(8)2006年07月12日 08:04

 決戦に臨んだ「軍神」の「隼」二型と、「ブリストル・ブレナム」のおそらく「MK IV」型の火力を比べてみよう。私は軍事専門家ではない。素人のごく単純な理論的比較の試みと心得ていただきたい。
 前回述べたように、「MK IV」は、5基の7.7mm機銃を持っていた。これに対し、「隼」二型は12.7mm機関砲2門だった。一般に、銃砲弾は大きく重いほど破壊力は大きくなるから、単純に言うと12.7mm機関砲弾の方が、7.7mm機銃弾より1.7倍ぼど破壊力が大きいと思われる。しかし一方で、単位時間当たりの発射弾数は、口径の小さな銃砲の方が多いだろう。
 そこで、「MK IV」型搭載の機銃の能力を「1」と仮定した時の、「隼」二型の機関砲の性能を、砲弾の破壊力で1.7倍、単位時間当たりの発射弾数で0.9倍と置いて推算してみる。すると、

 「MK IV」 5基×1.0(破壊力)×1.0(発射弾数)=5.00
 「隼」二型 2基×1.7(破壊力)×0.9(発射弾数)=3.06

と言う計算が立つ。 しかし、これはあくまでも、「総火力」の比較である。空中戦で伝統的に優位とされてきた後方からの攻撃に対しても、火力に限っては、攻撃される「ブリストル・ブレナム」の側が、ざっと4対3の優位に立てるのだ。
 同様に試算すると、火力の点で「隼」二型が優位ないし互角に立てるのは、真横からの3対2の優勢、向かって左斜め前からの突撃で3対2の優勢、正面からの挑戦で3対3の互角、ということになる。だが、大きな差は「MK IV」 の燃料タンク、エンジン周り、操縦席の高い防弾性能だ。
 防弾性能を考えると、両機の戦闘力の差は、かなり「MK IV」 優位だったはずである。「軍神」は、火力不足を補おうと敵機に接近しすぎて被弾したとされているが、優れた防弾性能と計算し尽くされた火器配置によって、「隼」の火力が封じられていたと見るべきではないか。
 「加藤機」は右翼から発火し反転墜落した状況から、「軍神」自身も被弾したらしい。防弾の弱さは否定できまい。(;)

軍神の遺影(9)2006年07月13日 08:06

 1本の映画から長話になった。寄せられたコメントやメイルを読んで痛感するのは、今や、かなりの年齢の日本人ですら、「戦争」についての正確な知識の涵養や、なぜ起きたかの歴史的な観照から、ひどく遠ざかっている現実だ。日本人は、戦争の真実を語り伝えていないと、改めて思う。
 戦争に負けた日本国民は、勝者とその追従者によって、戦争についての真実の伝承を断ち切られた。そして、「戦争の悲惨さ」と「内外の人民に及んだ被害」にのみ光を当てて戦争を学ぶようになった。
 戦争を招いた根本の原因や、戦わざるをえなかった大状況、戦争の果実についての評価と、「敗者の主張」を封じられ、タブー扱いにされてきた。この60年の災禍は甚大である。
 では、もう戦争と無縁なのか。──国民の目に直接は見えず、現実として認識している日本人は少ないが、中国人民軍は、100基を超す弾道ミサイルを、今この瞬間も"臨戦"の態勢で備えている。いずれも、平和を国是とす日本を射程におさめ、一部は核弾頭の搭載も可能だ。脅威という意味では、北朝鮮の弾道ミサイル「ノドン」の比ではない。事情を知るほどに、危機感は募る。
 それなのに、政治家も、防衛の実務家も、知識人も、知識人が多く拠るメディアも、国民に明確な現状と、対応の方策を明示したがらない。民主主義の基底に横たわる大衆迎合主義が故に、身を擲って国民に真実を訴え、民族の死活へ対処を迫る「不人気」を敢えてする勇気がない。
 かつて、日本が大陸で戦を始めた昭和6(1931)年の柳条湖事件当時、日本の政治指導部も国民の大多数も、大陸を侵し日本の勢力を拡げることが、民族に残された活路と確信していた。
 それは、インド亞大陸や豪州を大英帝国が支配し、ジャワをオランダが、交趾(コーチ)支那をフランスが、米国がフィリピンを押さえ、富を吸い上げていた帝国主義の植民地争奪の世界では、是非もない確信だった。
 これが、「軍神」を生んだ民族の生存環境である。戦争の責任は、敗れたがために、勝者によって一方的に裁かれ、処刑された戦犯たちにのみ帰せらるべきではない。(;)

軍神の遺影(10)2006年07月14日 08:03

 映画『加藤隼戦闘隊』に戻る。──製作に当たった東寶映画は、寶塚歌劇、東寶劇場、帝劇、日劇などと並び、当時の"レジャー産業"のトップを行く阪急グループ傘下の映画会社だった。
 監督は、山本嘉次郎。東京・銀座の生まれで慶応に学び、役者を志して老舗の煙草屋を営む父親から勘当され、手切れ金で映画会社を作った「モボ」の世代だ。脚本も自分で書き、残した作品も、エノケンこと榎本健一を多用した喜劇が多い。どちらかと言えば軟派の職人である。
 その山本が、1942(昭和17)年に、海軍省の注文で『ハワイ マレー沖海戦』を同じ東寶で作って大ヒットし、1年置いた44年に『加藤隼戦闘隊』の発表である。当時の日本人が、硬派も軟派も「私」を捨てて、戦争に協力していた様子が窺えよう。ジャーナリストも、文士も画伯も同じだった。
 配役の1人で、今も年寄りに歌われる隊歌「加藤隼戦闘隊」を歌った灰田勝彦は、ハワイ生まれだし、ハワイアンの歌手として戦前から、すでに売れっ子だった。戦争への協力を身過ぎ世過ぎと見るのも、阿世と誹るのも"見方"だが、戦後に世の中が変わってから批判しても、説得力はない。
 山本監督の、この2つの映画に驚異のの迫力を添えたのは、円谷英二の特撮技術だ。円谷は、この特技が祟って、戦後、公職追放されるが、やがて「ゴジラ」シリーズなどで復活する。
 かれこれ60年ぶりに観て、日本語の美しさに驚く。軍人の世界を描いただけに、当然と言えば当然だが、みな挙措動作がきびきびして、当時の日本人を思い出す。でぐでぐ太った猫背の男女などいなかったし、衣服だって、掛けるべきボタンはきちんと掛けていた。そんなところが、DVDを送ってくれた戦後派ジャーナリストを、いたく感激させたらしい。
 時代、時代を「現代」として写した映画には、学ぶものが多い。ただ、戦意高揚映画の類を観るには、心と知識の準備が要る。私は戦死者を崇敬している。国家・民族のため、大義のためとて、一命を擲つことは「神の業」だ。だから私は、酒場で軍歌を歌う気には決してなれない。=この項完。(;)