商売と良心(10) ― 2006年06月28日 08:08
このテーマでの談義も、そろそろおしまいにしようか。いつまでも論じていると、どんどん気が滅入ってくる。それは、「あとに続くを信ず」と言い残して、祖国のため、民族の大義のため、故郷に残した家族・同胞のために、従容として若い命を捧げ、散っていった先達への申し訳けなさが、限りなく膨らんでくるせいだ。
私たちが幼いころ、軍人や官員さん、大学の教授をはじめ学校の先生・学者、官員に準ずる鉄道員、郵便局員などは、少なくとも表向き、決してカネのために職務を遂行してはいなかった。日銀の行員なども、並みの銀行員とは区別されていた。一般の勤め人だって同様だった。カネは、あくまで副次的なものだった。
同世代の友人には、地方の公務員や、企業の枢要な地位にあった父親が、盆暮れの付け届けさえ頑なに拒むため、強引に進物を置いて去った商人の遣いを追って、母親が品物を突き返しに走る姿を見て育った者が少なくない。モノの足りない時代だったが、してはならないことへの厳格さがあった。そして、してはならないことに譲る心を、自らや一族の「恥」とした。
選ばれた地位にある者も、決して富んではいなかった。中流は、給与も安かった。が、「誇り」があった。貧しさは、いささかも「恥」ではなく、良妻賢母は年ごろの娘を質屋に同行して、「金策」を教えることに、何のためらいも抱かなかった。恥ずかしさの体系が、今の「ビジネスの時代」とは違ったのだ。
今、人々はカネ・モノが自由にならぬ暮らし向きを恥じ、厭う。反面、モノ・カネに頭を垂れることを恥とはしない。そして、モノ・カネに恵まれる「勝ち組」とやらになるために、やってはならぬと引き留める「良心」を、組織のためになどと藉口して、実はカネのために振り払って「小悪」に譲る。
かつて、大義のために生命を捧げる「勇気」を実践した先達を戴く同じ日本人が、「良心」を貫くための、小さな「勇気」さえ出し渋る。これでは、世情は日一日と悪くなって行くしかない。歯止めは、一人一人、己が「良心」を守る「勇気」を発揮することでしかない。(;)
私たちが幼いころ、軍人や官員さん、大学の教授をはじめ学校の先生・学者、官員に準ずる鉄道員、郵便局員などは、少なくとも表向き、決してカネのために職務を遂行してはいなかった。日銀の行員なども、並みの銀行員とは区別されていた。一般の勤め人だって同様だった。カネは、あくまで副次的なものだった。
同世代の友人には、地方の公務員や、企業の枢要な地位にあった父親が、盆暮れの付け届けさえ頑なに拒むため、強引に進物を置いて去った商人の遣いを追って、母親が品物を突き返しに走る姿を見て育った者が少なくない。モノの足りない時代だったが、してはならないことへの厳格さがあった。そして、してはならないことに譲る心を、自らや一族の「恥」とした。
選ばれた地位にある者も、決して富んではいなかった。中流は、給与も安かった。が、「誇り」があった。貧しさは、いささかも「恥」ではなく、良妻賢母は年ごろの娘を質屋に同行して、「金策」を教えることに、何のためらいも抱かなかった。恥ずかしさの体系が、今の「ビジネスの時代」とは違ったのだ。
今、人々はカネ・モノが自由にならぬ暮らし向きを恥じ、厭う。反面、モノ・カネに頭を垂れることを恥とはしない。そして、モノ・カネに恵まれる「勝ち組」とやらになるために、やってはならぬと引き留める「良心」を、組織のためになどと藉口して、実はカネのために振り払って「小悪」に譲る。
かつて、大義のために生命を捧げる「勇気」を実践した先達を戴く同じ日本人が、「良心」を貫くための、小さな「勇気」さえ出し渋る。これでは、世情は日一日と悪くなって行くしかない。歯止めは、一人一人、己が「良心」を守る「勇気」を発揮することでしかない。(;)

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