死にゆく言葉2007年04月16日 07:59

 肉体の加齢とは別に、ああトシを取ったなぁと、しみじみ感じさせられるのが、自分の言葉が通じない時代の現実を知った瞬間だ。
 もう7年にもなろうか、酒場で飲んでいて引き揚げる段になり、店の若い女性に「オレの外套を取ってくれんか」と頼んだら、怪訝な顔でマジマジと見つめられた。連れの同期生が、「オーバーだよ、オーバー」と、助け舟を出してくれながら、「しかし、君も古いねぇ」と言うのを聞いて、複雑な笑いを噛みしめながら、外套をまとったことがある。夜気が、ひときわ冷たかった。
 おまけに、次に寄った時、真顔の彼女から「通りに出て、街灯を取って来いと言われたのかと思いました」と告白され、また大笑いになった。
 感心にも字引は引いたそうで、「大きくて長い外着だからなんですね」と言うから、「ま、そんなもんだ」と、ただ「大」の下は「長」の略字で、一画少ないことを注意しておいた。
 昨日また、「懸壅垂=けんようすい」が、本邦で最も権威ある医学事典とされる、南山堂の『医学大辞典』からも消え去っていることを知って、愕然とした。古い「広辞苑」には載っているが、電子辞書にないのは当然だろう。「懸」はぶら下がる、「壅」は(気道を)ふさぐ意味だ。
 俗に「のどちんこ」という、口の奥にぶら下がる突起だが、私たちは「保健体育」の教本で「懸壅垂」と習った。今は「口蓋垂=こうがいすい」と呼ばれているようだ。改まった手紙や、医者との対話で、「のどちんこ」などとは言えない私ら世代は、これから「口蓋垂」を使うしかない。
 後輩ジャーナリストのKさんによると、「団塊の世代」に漢字熱が起きているといい、漢字検定試験に人気が集まっているそうだ。どうやら、彼らの目的は“認知不全症”の予防にあるようで、熟語の書き取りが主流らしい。前代の文化を未来に繋いで行く鎖の輪として、含意を大切にした漢字ことばを「死にゆく運命」に委ねたくない。このままだと、鷗外も漱石も、読めなくなりかねない。(;)