自らを戒める2007年04月13日 08:07

 朝日新聞が、4月から広告の審査部門を、広告局の所属から社長室に移し、「広告審査センター」として組織の管理系統を改めた。業界初の試みで、今後の成果に視線が集まっている。
 新聞社には、企業など広告主から掲載を申し込まれた広告が、掲載しても読者に損害を与えたり、社会に悪影響を与えたりしないかを「審査」する専門の部署がある。
 膨大な業務の一部は、新聞各社が共同出資した審査機関「新聞広告審査協会」などに委託しているが、これまで本体は、収益追求部門の広告局内にあった。審査基準も人事も広告局の管轄下にあったのだ。
 企業の中には、特に新しい事業の展開や創業の時期に、積極的な広告活動を展開して消費者・利用者・出資者などを勧誘するものがある。
 このような企業や事業が、広告によって期待通りの成果を上げ、順調に業績を伸ばせれば問題はない。だが逆に、多額の広告費を含む初期投資をしながら、事業展開につまずいて破綻し、消費者や出資者に損害を与えるケースも起きる。
 もともと、新聞広告の審査は、この種の危険から読者を保護する目的で始まった。日本では、近代化した経済活動が複雑さを加えた昭和30年代初めから、朝日を先駆者として新聞各社が「広告掲載基準」などを成文化し、組織的に行われるようになった。
 ところが近年、新聞広告を“撒き餌”のように使って、実現性のない詐欺まがいの事業への投資を募ったりする広告主が増え、現実に広告を信じた読者が被害を被る例が出てきた。新聞社の側にも、広告収入欲しさに、審査に甘さが生じたことも否めない。結果は、新聞の信頼喪失である。
 本来、読者なき新聞はあり得ず、読者なき新聞に広告を出す事業者もいない。つまり新聞社は、「読者第一」でなければ立ち行かない。そもそも、詐欺容疑を問われるは企業を、記事で散々叩いておきながら、その広告を大きく載せていたのでは、新聞の信頼は地に墜ちる。
 広告審査の社長直属化は、公正な言論の維持と、健全な経営との不可分な関係を象徴する、新聞社の自戒だ。(;)

社会部時代(29)2007年04月12日 07:58

 私は、最初の海外取材地ニューデリーで、羽田から同行した涌井と別れ、インド、パキスタンを取材して、ローマ、パリ経由、8月25日にマドリッドに入った。
 翌1964 (昭和39) 年7月15日に帰国するまでのほぼ1年間は、私という人間を大きく変えた。まず、マドリッドでベルリッツに通ってスペイン語の基礎を学んでから、64年1月から3月まで、マラガに講座を開いていたグラナダ大学の外人コースに入って、米、英、仏、西独、イタリア、スイス、スウェーデンなどの学生と共に、ただ一人の日本人として「スペイン通論」や「スペイン文化論」などを学んだ。
 当時のスペインには、マドリードですら、大使館を除くと三井物産2人、JETRO1人、少数の画家程度しか日本人は住んでおらず、マラガに移ってからの約4カ月は、日本語を話す機会が全くなかった。画家の一人には、プラード美術館に通いつめてボッシュの細密画の模写に励んでいた安井賞作家・藤田吉香(故人)がいて、多くを教わった。
 このような環境が幸いしたのか、課題のスペイン語は、何とか日常会話に不自由しない程度まで身につけることができた。
 こうした生活の中で、何ごともオープンな論争と、納得づくで処理してゆく「ことの処し方」と、年齢や性別、国籍や身分をほとんど問わない、親分・子分といったジメジメした日本的人間関係とは無縁な「欧米流のドライな行き方」を、知らず知らずに身につけたのだった。
 当時としては、日本からはあまりに遠く、知人や有力な紹介者もいなかったことが、かえって「欧米流」の理解に役立った。英語やフランス語がほとんど通用しなかった当時のスペインで、下宿探しから銀行口座の開設、学校選びやマイ・カーの購入交渉までを一人でこなすうちに、言葉はもとより、人々のものの考え方や生活パターンまでが、肌身でわかるようになっていった。(;)=この項終わり

社会部時代(28)2007年04月11日 08:08

 田代は、万事ぶっきらぼうだった。今日に比べれば極端に狭い紙面に、凝縮した記事を流し込む時代の新聞で育った体質かもしれない。そのころの記者に、よく見られたタイプだった。
 「いいか。スペインにはウチから誰も行っていないんだ。フランコに、もしものことでもあったら、お前さんが1面の本記から社会面の雑感まで一人で書くことになるんだ。いいな。それから、行きがけに東南アジアか中東を回ってもらう。オリンピックの準備状況取材だ。以上、終わりッ」と、ソッポを向いて席を立ってしまった。
 こうなっては詮方ない。すでに東京本社には「オリンピック対策本部」が店開きしていて、五輪報道合戦の前哨戦が、海外取材から始まっていた。私はオリンピック取材班に組み込まれていたのだ。それに、「フランコに、もしも」が激しく意欲を揺さぶった。
 スペインは、1939 (昭和14) 年に市民戦争が終わって以来、ヨーロッパの戦乱をよそに、当時もフランコ総統の下、4半世紀もの“独裁政権下の平和”を続けていた。
 しかし、バスク、カタロニア、アンダルシアなど、地方では反フランコ勢力が小規模の「テロ」を繰り返しており、まさしく「フランコに、もしも」は、十分あり得ることだった。
 私は丸善に走って、白水社から出たばかりの「シートブックス・スペイン語編」を買った。これは、フォノシートとか、ソノシートと呼ばれた薄い樹脂製のLPレコード盤が附いた語学教材で、ハンディーなホーム・ユース用のテープ・レコーダー/プレイヤーが登場する以前は、一時期を画した優れものだった。
 忙しい日常の仕事を縫ってのにわか勉強で、スペイン語に関しては、ほとんど手探り状態のまま、7月25日、新婚の妻を残して羽田を出発した。まだ外貨割り当てが厳しく、語学練習生には妻の帯同が許されなかった時代であった。(;)

社会部時代(27)2007年04月10日 07:59

 底流で重大な「お家騒動」が進んでいることなど、つゆ知らぬ私は、“大役”を終えた直後、スペインへ「語学練習生」として留学を命じられ、1963 (昭和38) 年7月、日本を離れる。
 ★語学練習生とは、戦後の1953 年に人材育成を目的に朝日独自で作った制度だ。当時は、毎年2~3人の若い記者を海外に1年間派遣し、語学と外地の事情を学ばせていた。初代は、ロンドンに派遣された一柳東一郎(のち社長)が、その1人だった。
 ★1963年の派遣組は、帰国してすぐの1964年10月に東京オリンピックが控えていたことがあって、やや変則的な人選だった。私の記憶では、英国に浜田隆 (のち労務総務担当常務) 、フランスに涌井 (前出) =ともに1953年入社、香港に籏野寿雄 (のち調査研究室主査) が送られた。
 ★私は、予め打診を受けた時、「フランス語をブラッシュ・アップしたいので、……」とフランスを希望したが、全く予想外のスペイン行きを内示された。東京オリンピックを控え、スペイン語のできる記者がいない、というのが理由だった。
 ★しかし、私にとってスペイン語は友人の教科書を覗いた程度の付き合いしかなかった。英語とフランス語は、学生時代に毎日、四谷の日仏学院と神田の英語学校をハシゴして鍛えた経験があった。
 ★それだけに、外国語が1年やそこいらでモノになるものでないことをよく知っていたから、内示役の社会部長代理の岩井に、「むちゃです。とても自信がありません。希望のフランスがだめなら、2~3年待たせてください」と言った。しかし岩井は、「自信がないだなんて言いぐさは社会部じゃ通じねぇよ。せっかく取ったワクなんだから、ぜいたく言わずに行ってこい」と取り合ってくれない。
 ★そこで翌日、田代に辞退の直談判に及んだ。ところが田代は「忙しいときにクダクダ言うな。だいたい、スペインってどこにあるんだ」と言う。
 ★ 「ご冗談でしょう。ピレネを挟んでフランスの隣ですよ」 「それならいいじゃねぇか。行ったり来たりすりゃぁいいだろ」 「しかし……」 「もう決まったことだ。手続きも終わっている。さっさとパスポートとビザを取れ」と、とりつくシマもなかった。(;)

社会部時代(26)2007年04月09日 08:00

 上野尚一の結婚披露宴である。パーティーが始まる。グラスを片手にした招待客で、広い孔雀の間も次第に埋まっていった。  ★改築前の、そのころの孔雀の間には、中二階のようなところに〝オーケストラ・ボックス〟があって、尚一が所属していた慶応義塾ワグネル・ソサエティーの小規模編成の管弦楽団が曲を奏でる中、新郎新婦がヒナ壇に上がり、媒酌人の村山社長、主賓の池田勇人首相の祝辞があった。  ★宴会の進行表と、腕時計ばかりが気になっていて、村山社長や池田首相の祝辞の内容を、つぶさには覚えていない。  ★ただ、池田首相のスピーチが、「日本の政治、文化、社会にとって朝日がいかに重要な新聞であるか」と、朝日新聞への賛辞に大部分を費やしながらも、婚儀の祝宴に招かれた者の当然の言葉として、「新郎は、将来の朝日新聞を背負って立つ器」と、最大級の賛辞を贈った記憶はある。  ★藤子夫人は社長の傍らに、ちょっと距離を置いて立っていたが、その表情には市兵衛町のガーデン・パーティーで見せる気負いと自信が見られず、いかにも不機嫌そうで、客の立場になるとこんなものかと、単純に思ったりもした。  ★実は、「第二次朝日騒動」が起こってから言われたことだが、この尚一の結婚と、時の首相までが来賓として祝辞を述べた盛大な披露パーティーが、村山夫妻、とりわけ藤子夫人をひどく刺激したのだという。  ★男子の世継ぎを持たぬ村山夫妻が、この上野家の慶事を目の当たりに見て、朝日新聞社における村山家の地位に危機感を抱き、ますます上野家への対抗心を募らせ、それが「騒動」の引き金の1つになったと取り沙汰されたのであった。(;)