新聞の無法(9)2006年06月01日 08:12

 「広告が多すぎる」「めくっても、めくっても広告ばかりだぜ」──そんな苦情を頻りに聞くようになって、かれこれ20年になるだろうか。広告が、新聞社の営業収入の大黒柱に太っていくほどに、紙面の中で目立つ存在になった。それでも、広告の量には、一定の枠があった。
 公職選挙法は、選挙報道を許される新聞・雑紙の条件として、「第3種郵便物の認可を得ている定期刊行物」を掲げている。特定候補者が、にわかに新聞・雑紙を発行し、「報道の自由」を悪用して選挙運動をすることを規制するためだ。
 他方、郵便法を基にで定められた「第3種郵便物」は、「選挙広告などの法定公告を除く広告の部分が、印刷されている部分の50%を超えないもの」が条件である。
 つまり、広告が50%かそれをを超えて印刷されている新聞・雑紙は選挙報道ができない。これが、「50%広告比率」と呼ばれる新聞広告の大枠である。そして、選挙報道をするためには、新聞は「第3種郵便物」の認可を得て、「50%広告比率」を守らねばならない。郵便で配達される新聞など、ゼロに近い時代なのにである。
 ところが、広告で稼ぐ傾向が嵩じた昭和50年代の初めころから、大手の全国紙などは、しばしば広告比率が50%を超えるようになった。しかし、同じ新聞社で発行されている新聞でも、夕刊の配れない地方へ行く新聞と、大都市圏に配られる新聞では広告量が違う。このため、「版別・発行部数別加重平均」という、ややこしい"便法"を郵政当局に特認してもらい、合法を装ってきた。
 でも、広告掲載量は増えるばかり。間もなく、この方法でも50%枠をクリアできなくなった。本来、厳正な行政を監視すべき立場の新聞業界が、どう働きかけたのかは闇の中だ。だが、当時の郵政省郵務局企画課長の「通達」によって、1992年9月から、◇国や自治体・特殊法人の広告、◇死亡告知・お詫び・尋ね人広告、◇意見広告、◇学校などの入学案内などは、「広告」でなく「記事」相当部分として算定することが認められたのだ。
 寄り切られそうになった横綱のために、行司が土俵を広げてやったようなものである。こんな無法は、新聞業界以外では通るまい。(;)

新聞の無法(10)2006年06月02日 08:02

 新聞紙面は、記事と広告で出来ている。記事部分の情報は、新聞社が自らの責任で取材し、編集したものであり、情報の取捨選択や信憑性など、責任の所在は新聞社にある。読者は、この記事部分に購読料を払っている。広告部分には、1円も払っていない。
 他方、広告は広告主が読者に無料で提供している情報である。広告主は、新聞社に広告料を払って、紙面に広告情報を印刷し読者に配達するサービスを買っているのだ。だから、広告に盛られた情報は、あくまでも広告主の責任の下に発信されたものであり、新聞社は法的な責任を負う立場にない。
 同じ新聞社が読者に届ける情報であっても、記事と広告の、このような性格上の違いから言って、一片の「課長通達」ごときで広告を記事扱いにするなど言語道断の無法である。
 この措置は、結果として公選法の規定を空文化するもので、通達を出した課長は、法令遵守を定めた国家公務員法に違反する疑いさえある。もちろん、通達を求めた新聞側の責任も重大だ。
 新聞の広告比率を、形式上50%未満に繕ったことで、読者は以前より多くの広告を受け取るようになった。しかも2000(平成12)年前後からは、広告主の要望を容れ、古くから広告の掲載を認めなかった3、5、7面などの左面に全ページ広告を載せ始めた。そこで、広告が一段と目立つようになった。
 左面は、読者がページをめくった際、まず視線を走らせる傾向があるため、主要な記事を掲載する伝統があったが、広告優先になって、読者優先は二の次に押しやられた。
 今日の新聞は、経営上の難題に直面すると、このように身勝手極まる無法を臆面もなくやってのける。しかも、結果として大切な顧客の利益を損なっても傲然としている。
 編集・販売・広告と組織の縦割りが硬直して総合的な経営判断が疎かになり、各部門のエゴが、他の部門での障碍を作るケースも多い。「広告の記事扱い」措置は、読者が広告偏重のしわ寄せを被った例だ。(;)

新聞の無法(11)2006年06月05日 08:29

 公正取引委員会は、5月31日、昨秋から提唱してきた新聞の特殊指定への見直しを断念、その旨を自公両与党執行部に伝えた。さらに、「新聞特指の見直しについては、公取委と業界の議論が噛み合わず、今回は結論を見送ることとした」旨を、6月2日、同委のHPにも公表した。
 自公両党はこれを受けて、「新聞特指維持のための独禁法改正案」の今国会提出を見合わせることに決めた。新聞業界の横紙破りがまかり通ったのである。
 公取委が、新聞取引の現況調査にすら着手することなく、当初に結論を出すとした期日、6月末を1ヵ月も前に、見直し作業を打ち切ったことには、多くの国民が疑問を抱いて当然だ。今回見直し対象の5分野のうち、新聞を除く4分野の特指廃止は全て決まった。
 新聞業界の抵抗は熾烈を極め、国会の全政党を味方につけ、新聞労連はもとより、各地の地方議会で特指維持声明の採択を取り付けるなど、正気の沙汰とは思えなかった。
 背景には、業界の恐るべき実情と厳しい危機感が潜んでいるのだが、新聞界は、これで政界に対して大きな借りを作った。新聞ジャーナリズムの公正さと批判機能を保つために、決して受けてはならぬ「権勢の庇護」を、全政党から頂戴したのは自殺行為だ。不偏不党の理念が泣いている。
 公取委としても、このような政界の思考停止的なナダレ現象を、「世論を背景として」と表現する政治圧力には、見直し着手以前に撤退せざるをえなかったのだろう。独禁法自体の改正まで持ち出した政治家たちの、新聞に対する特別扱いに、他の業界関係者はもとより、国民はとうてい合点が行かないはずだ。
 それどころか、新聞業の現実をつぶさに知っている読者・広告関係者などは、「世論」に藉口した政治家・新聞人を嗤っている。今回の例は、国民の政治不信も深めた。
 新聞業と政治業の共益維持に奔走した、中川秀直自民党政調会長は日経の、同党の「新聞の特殊指定に関する議員立法検討チーム=高市早苗座長」がまとめた独禁法改正案を、何の異論もなく認めた同党「経済産業部会」の松島みどり部会長は朝日の、さらにこの3人が所属する派閥の長で、小泉首相にも次期政権にも影響力を持つ「清和政策研究会」会長の森喜朗前首相は産経の、それぞれ記者出身であることを、国民はしっかりと記憶に留めておくべきでだ。
 新聞界は堕落の極にある。政界と癒着して業界の無法を貫くようでは、大崩壊は近い。(;)

新聞の無法(12)2006年06月06日 08:15

 私は、昭和34(1959)年に記者として新聞界に入って以来、平成6(1994)年に斯界を去るまで、ひたすら新聞のあるべき姿を求めて闘ってきたつもりだ。
 志すは、国民の信頼と期待に応えるに足る、「不偏不党」「正義人道」「反暴力・反腐敗」の新聞であった。そして今も、議会制民主社会における新聞の重大機能を信じ、下降一方の新聞の機能不全と堕落に警鐘を鳴らしている。
 その立場から、敢えて言わせてもらえば、新聞を駄目にした元凶は、新聞人の傲りと、怯懦にほかならない。傲りは独善とエゴを生む。怯懦は不正を生み、不正の粉飾が虚構を生む。
 今回、新聞業界が演じた特指見直し反対の狂乱の裏には、もし公権力を駆使した公取委の組織的実態調査が、新聞業界の販売や広告の現場に及んだら、虚構とエゴで固めた業界が壊滅的な打撃を受けることへの恐怖があったと、私は見る。
 反論があるなら、国会議員でも新聞協会の役員でも、はっきり言うがいい。──新聞業界は、販売店も本社も、虚偽の部数を掲げて不当に水増しした広告料金を得ていないか。
 販売店の大半が、不時の注文や定期購読者以外のスポット購読に対応するための「予備紙」のほかに、過去に新聞社から部数拡張を強要されて送られた「押し紙」などが起源の「積み紙」を抱え、「実売部数」を超えた「店部数」を、チラシ広告の広告主に公開している。
 そして、「店部数」に基づいて配布するチラシを受注し、配布料を水増しして受け取っている現実を、否定できるか。この実態は、内部告発としてウェブの世界にも数多く報告されているが、新聞側の否定・反論には、お目にかかったことがない。
 新聞本社はどうか。──部数は、掲載する広告募集のために"多々益々弁ず"だ。新聞社の「発行部数」は、末端の販売店から申告される「店部数」を積算したものである。広告部門は、この「水増し部数」を広告主に示し、水増しされた広告料を得ている。
 はっきり言う。これは刑事罰の対象だ。「実部数」を超えた分は、新聞もチラシも虚しく古紙と化す。こんなことで、何が正義の味方・国民の味方か。(;)

新聞の無法(13)2006年06月07日 08:12

 新聞業界は、自らを特別なものと思い込みすぎていないか。もちろん、民主社会における新聞の役割は重大この上もない。その公的な役割ゆえの責任感と高い誇りを持つことは大事だ。国民の側も、新聞へのさまざまな特典、──例えば政府専用機に同乗して首相などの外国訪問に同行したり、法廷や競技場の最前列で取材することを、その公的な役割ゆえに了承している。
 しかし昨今の新聞は、こうした取材・報道上の既得の特典はもとより当然視して、さらに事業上・経営上の恩典を求めて恥じない。いわば特権にアグラをかこうとする。世の中が自由競争を推進し、特定業界への保護撤廃が進んで行く中で、新聞業の特別扱いもいくらか縮小へ向かってはいるが、それでも、税法、商法、証券取引法などの上での優遇は残っている。
 一方で新聞業は、「商売本位・利益本位」へ、営利事業としての性格をますます強め、本来の社会的機能を萎ませている。「報道」の面でも、記者らの大半は閉ざされた記者クラブに蟄居して、あたかも公権力や権勢の"広報請負人"のごとく、どの新聞も同じ日に同じ内容の記事を書いては掲げることが多く、"脚で書いた記事"など独自色は薄まる一方だ。
 他方、「論評」もまた読む者を唸らせ、批評の対象者を叩頭させる迫力を欠く。土台となる知識が浅薄で、歴史や思想史についての教養に乏しいからで、甚だしきは、国益も民族意識も顧みず、歴史的根拠のある固有の領土を不逞の隣国に「呉れてやれ」などと、妄言を弄して嘲笑を買う。
 それもこれも、占領政策推進のために新聞を抱き込んだGHQによる特別扱いの名残で、以来、公の保護を貪ってきたこの業界特有の弊だ。しかし、庇護される者は、庇護する者に刃向かえない。公権力を監視し、その暴走を阻止する使命を負う新聞が、政・官の庇護に頼って無法を敢えてするのでは、本来の使命を遂行でるわけもない。
 新聞は、世の指弾を受けるような特典を自らかなぐり捨て、公権力とのしがらみを断って、民主社会の真の守り手に立ち帰らないと、早晩、国民に愛想を尽かされるだろう。(;)