商売と良心(3)2006年06月19日 08:21

 人間は、個人としては、まずやらない「良心に反する行動」を、集団の中では抵抗なくすることがある。つまり、組織・集団はそれ自体が存在意義や、行動目的を持っており、その成員は時として盲目的に、自己の良心や行動規範を封じて組織の命題に従う。この構図の中で、人間は個人としては行うことのないない悪事を、集団の一員としてやってのけるのである。
 組織の中で、自分を殺し、良心に反しながらも不本意な行動をするのは、家族から始まって地域集団・企業・国家など、自分の生活と存立を託している集団への、いわば動物的な「忠誠」が故だ。
 多くの場合、こうした行動をとるのは、命令や指示に基づく。そして、組織の中の人間は、命令や指示に逆らうことで、集団内での自分の立場が損なわれることを恐れ、命令に従う。
 組織・集団の悪事は、ほとんどが、こうした指揮・命令の構造の中でなされる。しかも、指揮・命令は「暗示」や「以心伝心」であることもしばしばで、命令し指揮する上司もまた、命令される側と同じく、集団の中での保身が冒されることへの恐怖に支配されていることが多い。
 結果として、一個の人間としては到底行えないような悪事が、組織の悪事となって実現する。その時、関与した者たちの心を占めるのは、「これは個人でやったことではなく、組織の行為なのだ」という逃避の論理である。
 一個の人間として備わった良心は疼くのだ。しかしその疼きを、組織・集団の利益のため、そして保身という自己の利益のためと、責めを転嫁して癒すのである。
 組織がなす「小悪」問題の核心が、ここにある。組織内の力関係や、組織そのものが常に直面している競争がある限り、このような個人の良心を圧殺する悪事のタネは尽きない。そして、こうした「小悪」の蔓延は、是非もない茶飯事となって行く。
 しかし、いかに小悪といえ、悪をなす組織は、必ずそれなりの評価を受け、長い目でみれば損失を免れない。だから、組織の利益を口実に、個人の良心を圧殺することの不利益を、組織人、殊にその指導者は肝に銘ずべきだ。(;)

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