商売と良心(11)2006年06月29日 08:05

 世の中が、日一日と荒んでいくことへの歯止めとして、《一人一人が「良心」を守る「勇気」を発揮すること》を挙げて、このテーマを締めくくろうとしたら、旧友から電話で、「それは期待薄だよ。だいいち、肝心の《良心》が何かが分からない世代が多数派だ。だから、《良心》に逆らうことを《恥》としても、土台が不明なら《恥》も分からない。従って、《勇気》がどのように《良心》と関わるかも、今の日本人の多数派には、理解できないと思う」というのである。
 私は、彼ほど悲観的ではない。しかし一々例を挙げられると、なるほど私は「甘い」のかもしれぬと、いささか反省した。彼の代案は、《すべからく法律や規則で「悪」を封じ込め、「小悪」には、消費者運動や自己責任原則で対応することだ》、というのだ。
 確かに、こんなことにも法令が要るのかと思うほど、今日の社会は法規で規制されている部分が多くなった。人々の、例えば商人に対する猜疑心も、英国や米国ほどではないにせよ次第に強まって、日本でも"闘争"としての消費者運動などが勢いを増している。それに、経済活動が国境を無くして行くため、経済関係のルールも同じにしようとする動きは止めようもない勢いだ。だから、日本社会では、伝統的に不文律とされてきたルールにも、成文化の必要が主張されたりする。
 だが、結果はどうか。──些細なことまで法で規定され、訴訟がやたらと増える。勢い、弁護士が一種の技術職として繁栄する。時に、常識や倫理・道徳の規範では理解困難な判決が、弁護士の詭弁術から生まれたりする。人々の、他人に対する不信は肥大し、だまされる者が笑われ、見捨てられる。
 ありとあらゆるものの管理が所有者の責任になり、カギや警備の需要が高まる。アメリカでよく見受けるように、腰にカギ束をぶら下げ、オフィスのトイレにまでカギをかけるようになる。
 まさに、「人を見たら泥棒と思え」の世界。こんな社会は、幸せだろうか。人間を、外から法で縛るより、その内にある人間らしさの象徴と言うべき「良心」を目覚めさせる地道な努力を優先すべきでないのだろうか。=この項、ひとまず完=(;)

コメント

_ とんこう ― 2006年06月29日 08:17

良心とは言えないと思いますが、品質が悪いと後で困るというのがあります。リコールなんていうのがそうですね。
クレームを起こさないようにするには、品質管理をしっかりする。
職業的良心と言えば、そう言えるのかな?

_ 天原一精 ― 2006年06月30日 06:08

竹庵先生
 まず御指摘に深く賛意を表した上で、別の視点から論じてみたいと思います。

 最適含水比という土木の用語があります。土が最もよく固められる場合の水の量をいいます。乾いていれば固まりませんし、水が多すぎるとどろどろですから、ある水量比において最適状態が存在することが理解できますね。この最適状態を「土」と略称しましょう。

 砂の場合にはそれに相当するものがありません。
 私には、最近の日本社会は、砂社会になりつつあるように思えます。以前の日本は土社会でした。地域社会における教育が基礎となって、土社会が構築されていたと思うわけです。教育は、日本の場合は、家族、近隣社会、学校、そして、身近な自然、という四つの環境に子どもたちが身を置くことでなされました。学校は主として言語コミュニケーションを中心とする教育者、自然自体も教育者です。残り二つは総合的教育者です。

 その揺るぎないフレームが破壊されました(フレームの重要性が認識されないまま、経済的合理性の追求によって、効率主義が大都市に人を吸収したりしたことによって)。同時に一見合理的と見える自由を個人が獲得することによって、個人は、砂の粒粒へと変貌してしまいました。人びとは自由を謳歌しているかに見えます。そのくせバラバラなので、実は、不安定極まりなく、結局は自らを防禦するために、北風を、マントで身を包んで避けるように、何もかも鍵をかけねばならない社会にしてしまっています。自由を求めることが不自由をもたらす、という矛盾を犯してしまいました。「短期的に合理的に見えることは長期的に不合理なことが多い」(一見不合理に見えることもそれなりに理由があるのだ)と江戸時代の研究家石川英輔氏は指摘しておられます。

 もう一度土社会の構築をめざすべきです。私は、その意味で大都市よりも村落共同体的な過疎地の再生を急ぐべきと考えております。都会でも、マンションよりも共同の炊事場を持つ長屋がいいと思います。学校も粒ぞろいでの教育よりも、雑多社会の方がいいのだと思います。(長くなりますのでまずはこの辺で切りましょう)

_ 天原一精 ― 2006年06月30日 06:27

竹庵先生

 森鴎外を生んだ津和野は美しい。吉田松陰を生んだ萩も美しい。西郷隆盛を生んだ金錦湾の眺めはすばらしい。
 人の美しさ(強さ)と環境の美しさは「対」の関係にあるようです。(効率を追求した結果としての)ビルが林立する街のどこが(子どもたちにとって)美しいでしょうか。心がすさびます。そういう環境に住まわせながら、教育、教育と叫んだところで、いっこうに良くはならないと思います。教育を論じる人びとは、何もわかっちゃいない、といいたいほどです。ふるさとが美しく、かつ、三度の食事も忘れるほどに、その環境に浸りきりで遊びほうける日々を送ることができた人びとは、あたかも帰巣本能があるがごとくふるさとを生涯思慕するものです。その延長上に愛国心もあるのですよね。美しいふるさととそれとの幼少の交わりが愛国心を素直に培養するのですよね。

 そういった心の培養が、性善説に立てる社会の再構築に結びつくのではないか、と思うのです。

_ 竹庵(天原一精様へ) ― 2006年06月30日 09:52

 天原一精様。 ご意見を読んで、深く感動しました。仰るように、今の日本は<自由を求めることが不自由をもたらす、という矛盾を犯してしまいました。>
 実は昨晩遅く、思い立って、また1982年のコロンビア映画「GANDHI」をDVDで観始め、夜更かしをしてしまいました。この映画には、何度もくじけそうな気持ちを奮い立たせられます。観るたびに、新しい発見があります。今回も、ガンディーと彼の妻が、別々に「ヒンディーの欲望観」を語るところで、共感しました。
 仰せのように、西欧起点の文明は「都市の空気で自由に」なって以来、迷路に迷い込んだのかもしれません。ガンディーが拠点とした、自給自足の農村の「アシュラム」にも、教えられるところ大です。まさに、<ふるさとが美しく、かつ、三度の食事も忘れるほどに、その環境に浸りきりで遊びほうける日々を送ることができた人びとは、あたかも帰巣本能があるがごとくふるさとを生涯思慕するものです。その延長上に愛国心もあるのです>
 現実には、足の裏に「土」の感覚を得られない環境で生まれ、育った人々が千万単位に増え、「都市の空気の自由さ」に故郷を忘れて"有頂天"の止まり木で悪を競う世の中です。
 しかし、ガンディーが祖国独立に立ち向かった時も、同じようにどこから手をつけていいのか分からないほどの混乱があったわけで、私たちは、まだまだ生ぬるい。死を賭しての行動はしていないのだから。
 「GANDHI」を観て、つくづく思うのは、当時のマス・メディアの元気さと影響力の大きさです。当時に比べれば、マス・コミのメディアは、技術的にも飛躍的に発展しているのに、これまた<短期的に合理的に見えることは長期的に不合理なことが多い>一つの好例でしょう。まるで、元気も方向性もない。

_ anonymous ― 2006年07月02日 02:39

竹庵先生

共感を得られて嬉しく思います。私もガンジーの映画をみてみたいです。
 
 風土が人(の魂)をつくり、人が文化文明をつくるのですから、風土に背離しない環境の創造こそ求められるべきで、美しい国土の回復こそ急務ではないかと考えております。多くの童謡に歌われたように日本の風景は実に美しいものでした。

 さて、「短期的に合理的なことほど長期的には不合理な結果をもたらしやすい。長期的に合理的なことほど、短期的には不合理にみえる…」

 小泉内閣は、短期的に合理的に見えることをせっせとやってきた典型に思えます。
 日本社会にも、一見不合理とみえる規範とかしきたりなどが多く存在しました。それを破壊してきた内閣であったように思うのです。たとえば、次のような諸点。

1.市場競争至上主義は、ものやサービスの効率的供給の極限を目指します。大都会が圧倒的に有利なので、大都市(東京)でしか就職できない。上京した若者は都会では容易に結婚できず、少子化に拍車をかける。日本は衰退の一途…。一方では少子化担当大臣をおくという矛盾。要は、気づいていないのです。(本末転倒の効率主義)

2.物干し竿は竹で作るより、化学製品が美しく、安い。しかし、やがては廃棄される運命にありながら土に帰れないのでゴミの山。ものすごいコストとエネルギーがかかります。(弁当の包装も竹の皮が、竹林の手入れにも、おばちゃんたちのバイトにもなっていいのです…)

3.高い生産性を実現するために、人でできることも可能な限り機械に置き換えました。失業者が溢れ、高い社会保障経費が必要となってしまいます。ゴーンさんがなさったことがそれらしいです。終身雇用は、安心を実現していました。日本的企業のよさが破壊され、少子化に拍車をかけています。

 今日の社会の混乱の原因にこのような矛盾からくることがかなりあるのではないでしょうか。このような政策的な矛盾の事例を皆で考える通年的なシリーズを、竹庵先生のブログでしてみたらいかがでしょうか。

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