休載のご挨拶 ― 2007年04月20日 08:16
唐突で恐縮だが、事情があって、この連載を今日のこの一編をもって休載させていただく。今回が第628回。やがて2年半だし、本音は続けたい。何とか続けたいのだが、事情が許さぬ。
事情とは、原稿料である。ブログに原稿料があるのかい、といぶかる方もあろう。おそらくほとんどのブログが、確かに、金銭的な報酬を得ることのないウェブ上の「書き込み」である。
書き手のほとんども、文章を書くことを生業としている人々ではない。日記代わりにとか、自分の存在の証としてとか、文章を書くこと自体が趣味だとかいう理由で、ウェブ上の、顔も姿も見えない同好の士、同憂の士などを想定読者に、書き込こまれている。本質的には、「私」の世界である。
中には、専門家でないと到底得られないと思われる高度な情報を書き込んでくださる方もあって、「公」に有用なブログも数多くある。既存のメディアなら、当然、原稿料を払って刊行し、ビジネスが成り立つところだが、ウェブでは、この種の情報も今もって無償で扱われいる。
それでもアメリカでは、大新聞など在来メディアの記者やコラムニストといった、情報と文章のプロが、メディアでの仕事とは別にブログを構え、それと連動した言論活動や、読者・視聴者と対話をする形態が固まってきた。
こうしたブロガーには、記者やコラムニストとして、メディアから月給が払われており、さらに、ブロガーとしても重きをなすようになると、ボーナスが出ているという。
彼らがブログに書いたものに、正当な報酬が支払われるのは当然だ。まして、ものを書く以外には、些少な年金しか収入のない、もの書きのプロである竹庵が、書いたものに報酬を求めて、なぜ不当だろう。雑誌などでは、稿料の相場も戴いている身だ。
脳漿を絞った労作でも、カネを払わないのはウェブのしきたりだと構えていては、この世界の言論の質的な向上は実現しないだろう。
情報流通の機能から言っても、ブログという発言形式が、ウェブに新しいジャーナリズムとマス・コミュニケーションを形成する日は近い。それには、まず情報の有料化や“ゴミ情報"の一掃などの工夫が不可欠だ。
ご声援、ご叱声、有り難うございました。また、どこかでお目にかかりましょう。さようなら。(.)
事情とは、原稿料である。ブログに原稿料があるのかい、といぶかる方もあろう。おそらくほとんどのブログが、確かに、金銭的な報酬を得ることのないウェブ上の「書き込み」である。
書き手のほとんども、文章を書くことを生業としている人々ではない。日記代わりにとか、自分の存在の証としてとか、文章を書くこと自体が趣味だとかいう理由で、ウェブ上の、顔も姿も見えない同好の士、同憂の士などを想定読者に、書き込こまれている。本質的には、「私」の世界である。
中には、専門家でないと到底得られないと思われる高度な情報を書き込んでくださる方もあって、「公」に有用なブログも数多くある。既存のメディアなら、当然、原稿料を払って刊行し、ビジネスが成り立つところだが、ウェブでは、この種の情報も今もって無償で扱われいる。
それでもアメリカでは、大新聞など在来メディアの記者やコラムニストといった、情報と文章のプロが、メディアでの仕事とは別にブログを構え、それと連動した言論活動や、読者・視聴者と対話をする形態が固まってきた。
こうしたブロガーには、記者やコラムニストとして、メディアから月給が払われており、さらに、ブロガーとしても重きをなすようになると、ボーナスが出ているという。
彼らがブログに書いたものに、正当な報酬が支払われるのは当然だ。まして、ものを書く以外には、些少な年金しか収入のない、もの書きのプロである竹庵が、書いたものに報酬を求めて、なぜ不当だろう。雑誌などでは、稿料の相場も戴いている身だ。
脳漿を絞った労作でも、カネを払わないのはウェブのしきたりだと構えていては、この世界の言論の質的な向上は実現しないだろう。
情報流通の機能から言っても、ブログという発言形式が、ウェブに新しいジャーナリズムとマス・コミュニケーションを形成する日は近い。それには、まず情報の有料化や“ゴミ情報"の一掃などの工夫が不可欠だ。
ご声援、ご叱声、有り難うございました。また、どこかでお目にかかりましょう。さようなら。(.)
異様なトイレ ― 2007年04月19日 09:15
外地で暮らす際、程度の差こそあれ、自国の文物を持ち込んで身の回りに置かない者は滅多にいない。それが、民族固有の食べ物だったり、伝統の家具調度や食器、衣装や道具類のような持参の品であったりする分には、大した問題は起きない。いや、むしろ異邦人や異国の文化文物に関心を抱く地元の人々との交流には欠かせない、有用な小道具になる。
しかし、行った先で、その地固有の文物を、自国の文化や生活様式に従わせるように改造するとなると、ことはややこしくなる。文化の接触・交流ではなく、文化の侵略になりかねないからだ。
敗戦後、全国各地に入ってきた進駐軍は、住居やオフィス、遊興施設などに当てる目的で、さまざまな家屋や施設を接収した。それらは、旧日本軍の施設はもとより、県や市の首長の公邸であったり、解体された財閥の別邸や別荘であったり、資産家の私邸であったりした。
接収された施設には、「OFF LIMIT / NO LOITERING=立ち入り禁止・この付近徘徊するべからず」の赤い表示板が付けられ、並みの日本人を寄せ付けなかった。
これらの施設は、数年後に順次返還されたが、特に私邸などのケースで、持ち主をひどく嘆かせたのは、その改造・改変ぶりだった。多くの場合、北山杉の床柱や、檜の銘木を使った欄間に真っ赤なペンキが塗られたり、畳がはがされて木の床に変わり、便所が洋式になったりしていた。
私が一時通った中学は、もともと旧陸軍の兵営だったものを、米軍の接収後に国から払い下げを受けた建物だったが、この建物の内壁には、あちこちに白人女性の巨大なヌードや、コミックの一場面がペンキで描かれていて、子ども心に異様な感じと反感を抱かせられた。
兵舎と別に、屋根だけの小屋が残っていた。長いベンチのような板張りの腰掛けに、1.5メートルほどの間隔で頭が入るほどの丸い穴が10個ばかり一列に並んでおり、米兵がトイレに使ったといわれていた。穴と穴の間には何の隔壁もなく、兵隊はここで列を作って用を足していたというのだ。日本人には想像を超えた光景だが、教師の一人が、「そういう文化なんだよ」と言った。(;)
しかし、行った先で、その地固有の文物を、自国の文化や生活様式に従わせるように改造するとなると、ことはややこしくなる。文化の接触・交流ではなく、文化の侵略になりかねないからだ。
敗戦後、全国各地に入ってきた進駐軍は、住居やオフィス、遊興施設などに当てる目的で、さまざまな家屋や施設を接収した。それらは、旧日本軍の施設はもとより、県や市の首長の公邸であったり、解体された財閥の別邸や別荘であったり、資産家の私邸であったりした。
接収された施設には、「OFF LIMIT / NO LOITERING=立ち入り禁止・この付近徘徊するべからず」の赤い表示板が付けられ、並みの日本人を寄せ付けなかった。
これらの施設は、数年後に順次返還されたが、特に私邸などのケースで、持ち主をひどく嘆かせたのは、その改造・改変ぶりだった。多くの場合、北山杉の床柱や、檜の銘木を使った欄間に真っ赤なペンキが塗られたり、畳がはがされて木の床に変わり、便所が洋式になったりしていた。
私が一時通った中学は、もともと旧陸軍の兵営だったものを、米軍の接収後に国から払い下げを受けた建物だったが、この建物の内壁には、あちこちに白人女性の巨大なヌードや、コミックの一場面がペンキで描かれていて、子ども心に異様な感じと反感を抱かせられた。
兵舎と別に、屋根だけの小屋が残っていた。長いベンチのような板張りの腰掛けに、1.5メートルほどの間隔で頭が入るほどの丸い穴が10個ばかり一列に並んでおり、米兵がトイレに使ったといわれていた。穴と穴の間には何の隔壁もなく、兵隊はここで列を作って用を足していたというのだ。日本人には想像を超えた光景だが、教師の一人が、「そういう文化なんだよ」と言った。(;)
どんな育ちか ― 2007年04月18日 07:56
地方公務員を定年で辞めた幼友達が、複数の生命保険会社に退職金を託し、個人年金保険を契約したところ、わけの分からない約款の“ウラ条項”を盾に、支給額が期待を大幅に下回る結果になったという。彼は仕事柄、法律や行政の知識を備えていたため、1年ほど抗議を続けた末、最後は金融庁にまで問題を持ち込んで目出度く“オモテ条項”通りの支給を勝ち取った。
もう5年ほど前の話で、大手の保険会社が、そんなあくどい商売をするものかと呆れながら、半信半疑で“武勇伝”を聞いたものだが、最近、底知れずの様相で白日の下に晒されている生保の不払い事件の凄まじさには、舌を巻く思いがする。
「生命保険は、人類史上最大の詐欺商品」という言葉があるそうだが、2005年までの5年間で、大手・中堅の12社を中心に、約25万件、総額で約284億円の不払いがあったことが、金融庁の命令で行った各社の内部調査で明るみに出た。もっとも、これで総ざらいではなく、さらに調査の進み具合では件数、金額とも大幅に増えそうだというから、驚きを通り越して怒りを感じる。
生保会社の倫理欠如も呆れたものだが、全国各地の原子力発電所で隠されていた、大量の燃料棒の脱落など、100件近い事故やデータの改竄などが明るみに出た件も、中には世界を震撼させる臨界事故すれすれのものが含まれていたりして、身の毛のよだつ思いがした。
これらの不祥事は、個人や組織にとって都合の悪いこと、不名誉なことを隠したがり、時には事実をねじ曲げた記録や報告書を捏造して誤魔化す「嘘」が共通だ。後日、不正が露見した時、たっぷり恥をかいて叩頭することを考えれば、なぜ素直に「正直」が働かないだろうか。
察するに、テレビの前で頭を下げているのは、本人に直接の責任がない気楽さからで、本気の謝罪ではなかろう。この際、実際に不正を犯し、それを指示または黙認した本当の責任者を遡って糾弾すべきだ。それと、そういう人々の「育ち方」を徹底分析することも、「美しい国」作りの参考になるだろう。(;)
もう5年ほど前の話で、大手の保険会社が、そんなあくどい商売をするものかと呆れながら、半信半疑で“武勇伝”を聞いたものだが、最近、底知れずの様相で白日の下に晒されている生保の不払い事件の凄まじさには、舌を巻く思いがする。
「生命保険は、人類史上最大の詐欺商品」という言葉があるそうだが、2005年までの5年間で、大手・中堅の12社を中心に、約25万件、総額で約284億円の不払いがあったことが、金融庁の命令で行った各社の内部調査で明るみに出た。もっとも、これで総ざらいではなく、さらに調査の進み具合では件数、金額とも大幅に増えそうだというから、驚きを通り越して怒りを感じる。
生保会社の倫理欠如も呆れたものだが、全国各地の原子力発電所で隠されていた、大量の燃料棒の脱落など、100件近い事故やデータの改竄などが明るみに出た件も、中には世界を震撼させる臨界事故すれすれのものが含まれていたりして、身の毛のよだつ思いがした。
これらの不祥事は、個人や組織にとって都合の悪いこと、不名誉なことを隠したがり、時には事実をねじ曲げた記録や報告書を捏造して誤魔化す「嘘」が共通だ。後日、不正が露見した時、たっぷり恥をかいて叩頭することを考えれば、なぜ素直に「正直」が働かないだろうか。
察するに、テレビの前で頭を下げているのは、本人に直接の責任がない気楽さからで、本気の謝罪ではなかろう。この際、実際に不正を犯し、それを指示または黙認した本当の責任者を遡って糾弾すべきだ。それと、そういう人々の「育ち方」を徹底分析することも、「美しい国」作りの参考になるだろう。(;)
からたけわり ― 2007年04月17日 08:05
日本の伝統的な市民文芸の、相当な部分が、武張った「さむらいもの」だ。歌舞伎、浄瑠璃、講談、草双紙などには、しばしば武士たちが、ダンビラをかざして立ち回る場面が登場する。
そんな場面の表現に、「まっこうからたけわり」というのがあって、長いこと気になっていた。場面としては、大上段に構えた太刀を、敵の頭上に振り下ろして斬るアクションだ。
とにかく「まっこう」は、「額の真ん中」とか「兜の鉢の前部」、つまり野球帽でいえばチームの頭文字が縫いつけてある部分だから、刀を打ち下ろす場所は、それと分かる。
問題なのは「からたけわり」の部分である。いったい「から+たけ+わり」なのか「から+たけわり」なのか「からたけ+わり」か、それとも「からたけわり」なのか。
重い太刀を振り下ろすのだから、「わり」は「割り」であろうと、容易に見当はつく。だが、「一瞬、一丈ほども空中に飛び上がった武蔵、櫂を削った手作りの木刀を、天空から小次郎めがけてまっこうからたけわりーッ」などという講釈師の語りを聞いていると、どうも「からたけわり」と称する剣術の決まり手がありそうに思えてくる。
そこで「からたけ」を探ってみると、「幹竹・唐竹・漢竹」の字が当てられており、諸説はあるが、昔の中国から渡って来たという竹で、いずれも細く、節の間隔が長く、全体に真っ直ぐに育つ性質から、笛や筆の軸、矢柄に使われる篠竹のような種類、さらに淡竹(はちく)、布袋竹(ほていちく)までを指して、どうも豪快に上から下までズンバラリンと斬りおろす様を表すには役不足だ。
だが、さらに調べるとあった、あった。「幹竹割」を当て字に、18世紀の世話物浄瑠璃『夏祭浪花鑑=なつまつりなにわかがみ』を出典に、「捕ったとかかるを幹竹、梨割、車切、はらりはらりと薙倒す」と用例がある。やっぱり「幹竹割」という「斬り方」なのだ。因みに「梨割」は頭を砕く斬り方、「車切」は胴を輪切りにする斬り方だそうである。これで、長年の宿題も「からたけわり」。(;)
そんな場面の表現に、「まっこうからたけわり」というのがあって、長いこと気になっていた。場面としては、大上段に構えた太刀を、敵の頭上に振り下ろして斬るアクションだ。
とにかく「まっこう」は、「額の真ん中」とか「兜の鉢の前部」、つまり野球帽でいえばチームの頭文字が縫いつけてある部分だから、刀を打ち下ろす場所は、それと分かる。
問題なのは「からたけわり」の部分である。いったい「から+たけ+わり」なのか「から+たけわり」なのか「からたけ+わり」か、それとも「からたけわり」なのか。
重い太刀を振り下ろすのだから、「わり」は「割り」であろうと、容易に見当はつく。だが、「一瞬、一丈ほども空中に飛び上がった武蔵、櫂を削った手作りの木刀を、天空から小次郎めがけてまっこうからたけわりーッ」などという講釈師の語りを聞いていると、どうも「からたけわり」と称する剣術の決まり手がありそうに思えてくる。
そこで「からたけ」を探ってみると、「幹竹・唐竹・漢竹」の字が当てられており、諸説はあるが、昔の中国から渡って来たという竹で、いずれも細く、節の間隔が長く、全体に真っ直ぐに育つ性質から、笛や筆の軸、矢柄に使われる篠竹のような種類、さらに淡竹(はちく)、布袋竹(ほていちく)までを指して、どうも豪快に上から下までズンバラリンと斬りおろす様を表すには役不足だ。
だが、さらに調べるとあった、あった。「幹竹割」を当て字に、18世紀の世話物浄瑠璃『夏祭浪花鑑=なつまつりなにわかがみ』を出典に、「捕ったとかかるを幹竹、梨割、車切、はらりはらりと薙倒す」と用例がある。やっぱり「幹竹割」という「斬り方」なのだ。因みに「梨割」は頭を砕く斬り方、「車切」は胴を輪切りにする斬り方だそうである。これで、長年の宿題も「からたけわり」。(;)
死にゆく言葉 ― 2007年04月16日 07:59
肉体の加齢とは別に、ああトシを取ったなぁと、しみじみ感じさせられるのが、自分の言葉が通じない時代の現実を知った瞬間だ。
もう7年にもなろうか、酒場で飲んでいて引き揚げる段になり、店の若い女性に「オレの外套を取ってくれんか」と頼んだら、怪訝な顔でマジマジと見つめられた。連れの同期生が、「オーバーだよ、オーバー」と、助け舟を出してくれながら、「しかし、君も古いねぇ」と言うのを聞いて、複雑な笑いを噛みしめながら、外套をまとったことがある。夜気が、ひときわ冷たかった。
おまけに、次に寄った時、真顔の彼女から「通りに出て、街灯を取って来いと言われたのかと思いました」と告白され、また大笑いになった。
感心にも字引は引いたそうで、「大きくて長い外着だからなんですね」と言うから、「ま、そんなもんだ」と、ただ「大」の下は「長」の略字で、一画少ないことを注意しておいた。
昨日また、「懸壅垂=けんようすい」が、本邦で最も権威ある医学事典とされる、南山堂の『医学大辞典』からも消え去っていることを知って、愕然とした。古い「広辞苑」には載っているが、電子辞書にないのは当然だろう。「懸」はぶら下がる、「壅」は(気道を)ふさぐ意味だ。
俗に「のどちんこ」という、口の奥にぶら下がる突起だが、私たちは「保健体育」の教本で「懸壅垂」と習った。今は「口蓋垂=こうがいすい」と呼ばれているようだ。改まった手紙や、医者との対話で、「のどちんこ」などとは言えない私ら世代は、これから「口蓋垂」を使うしかない。
後輩ジャーナリストのKさんによると、「団塊の世代」に漢字熱が起きているといい、漢字検定試験に人気が集まっているそうだ。どうやら、彼らの目的は“認知不全症”の予防にあるようで、熟語の書き取りが主流らしい。前代の文化を未来に繋いで行く鎖の輪として、含意を大切にした漢字ことばを「死にゆく運命」に委ねたくない。このままだと、鷗外も漱石も、読めなくなりかねない。(;)
もう7年にもなろうか、酒場で飲んでいて引き揚げる段になり、店の若い女性に「オレの外套を取ってくれんか」と頼んだら、怪訝な顔でマジマジと見つめられた。連れの同期生が、「オーバーだよ、オーバー」と、助け舟を出してくれながら、「しかし、君も古いねぇ」と言うのを聞いて、複雑な笑いを噛みしめながら、外套をまとったことがある。夜気が、ひときわ冷たかった。
おまけに、次に寄った時、真顔の彼女から「通りに出て、街灯を取って来いと言われたのかと思いました」と告白され、また大笑いになった。
感心にも字引は引いたそうで、「大きくて長い外着だからなんですね」と言うから、「ま、そんなもんだ」と、ただ「大」の下は「長」の略字で、一画少ないことを注意しておいた。
昨日また、「懸壅垂=けんようすい」が、本邦で最も権威ある医学事典とされる、南山堂の『医学大辞典』からも消え去っていることを知って、愕然とした。古い「広辞苑」には載っているが、電子辞書にないのは当然だろう。「懸」はぶら下がる、「壅」は(気道を)ふさぐ意味だ。
俗に「のどちんこ」という、口の奥にぶら下がる突起だが、私たちは「保健体育」の教本で「懸壅垂」と習った。今は「口蓋垂=こうがいすい」と呼ばれているようだ。改まった手紙や、医者との対話で、「のどちんこ」などとは言えない私ら世代は、これから「口蓋垂」を使うしかない。
後輩ジャーナリストのKさんによると、「団塊の世代」に漢字熱が起きているといい、漢字検定試験に人気が集まっているそうだ。どうやら、彼らの目的は“認知不全症”の予防にあるようで、熟語の書き取りが主流らしい。前代の文化を未来に繋いで行く鎖の輪として、含意を大切にした漢字ことばを「死にゆく運命」に委ねたくない。このままだと、鷗外も漱石も、読めなくなりかねない。(;)
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