軍神の遺影(2)2006年07月03日 08:12

 1937(昭和12)年の「盧溝橋事件」に端を発した「支那事変」以来、すでに中国で始まっていた「大東亜戦争=太平洋戦争」が、1941年12月8日、日本が米英両国に宣戦を布告して東アジア・太平洋全域に拡大するまで、今のインド、パキスタン、バングラデシュ、スリ・ランカ(当時セイロン)、ミャンマー(同ビルマ)などは、すべて大英帝国の植民地であった。
 また、1940年6月、ナチス・ドイツに敗れたフランスが、合法的に政権を託されたペタン元帥率いる親独「ヴィシー政府」の手でナチスと休戦協定を結んだ後も、今のヴィエトナム、ラオス、カンボディアは、引き続き「仏領インドシナ=仏印」として、法的にはフランスを宗主国としていた。
 映画『加藤隼戦闘隊』の初めの部分で描かれているが、米英への開戦に先だって、同飛行隊が、今のヴィエトナム領の観光地フーコック(Phú Qúoc)島ヅォンドン(Dúong Dông)に基地を設けられたのは、ヴィシー政権との交渉によって、1940年9月、日本軍が仏印に無血進駐した結果だ。
 一方、米国は、1941年3月に施行した「武器貸与法=The Lend-Lease Act」に基づいて、中国大陸で対日抗戦を続けていた蒋介石率いる「重慶政府」に対し、仏印・ビルマ・南支那の密林と山岳を縫う「援蒋ルート」と空路によって、武器・弾薬・燃料・食糧など膨大な援助物資を送り込んでいた。
 「援蒋」の実体的な目的は、明らかに19世紀の末以来、米国が唱え続けていた中国の「門戸開放」、つまり巨大中国市場への参入だった。
 対する日本の戦略は、マレー半島上陸作戦を皮切りとする「援蒋ルート」の遮断であり、東南アジアからの米英、そしてナチス・ドイツに中立を侵されて英国に亡命政権を設けていたオランダのアジア植民地(今日のインドネシアなど)からの駆逐だった。
 加藤中佐率いる陸軍飛行第64戦隊が、「国共合作」下の中国軍との激戦を経て、広東から仏印に転進した背景には、こんな事情があった。当時、極東の独立国は日本とタイだけであった。(;)

軍神の遺影(3)2006年07月04日 08:07

 『加藤隼戦闘隊』こと陸軍飛行第64戦隊(戦時別称・高2194部隊)は、1941年4月に加藤建夫中佐が隊長に就任した後の8月から、当時の陸軍の最新鋭単座「一式戦闘機=一式戦」・愛称「隼」で編成された。
 「隼」は、1937年12月に陸軍が富士重工の前身・中島飛行機に設計・製造を発注、「キ-43」の試作名称で開発された。設計には、中島の至宝といわれた小山悌技師長の下に、戦後日本のロケット開発を先導した、後の東大教授・糸川英夫も技師として参加している。
 「キ-43」と、それまでの陸軍戦闘機との顕著な違いは、主脚を「折りたたみ式」にし、3枚ペラにした点で、これが、軽快な旋回性能や高速化に大きく貢献した。
 ただ、脚の飛躍的改良を除くと、「一式戦」の設計の大要は、同じ中島飛行機が設計・生産した日本陸軍初の低翼式単座「九七式戦闘機」をなぞったものであった。
 「九七式戦」は、日本とソ連が満蒙国境で激突した1939年の「ノモンハン事件」における空中戦で圧倒的な強さを見せ、ソ連空軍に"空の狙撃兵"と恐れられた高性能機で、約3,400機が生産されたと記録にある。
 「キ-43」は、昭和16年に「一式戦」として正式採用となり、中島飛行機と立川飛行機(旧石川島造船所の子会社)で、計約7,500機生産された。因みに、当時の日本では、年号に「皇紀」が併用されており、「九七」は皇紀2597(昭和12=西暦1937)年、「一式戦」の「一」は皇紀2601(昭和16=西暦1941)年を意味した。
 「一式戦・隼」の主な性能は、高度6,000mで最高時速536km、上昇力5,000mまで4分48秒、航続距離約1,600km、増槽で約3,000kmとされており、12.7mm機関砲2門に各270発の砲弾を装備した。ただ、米英の戦闘機では20mmの機関砲が一足先に主力になって行った。
 約11,000機も作られた海軍航空の名機「零戦」にも匹敵する優れた運動能力を誇ったが、米英機の性能も急速に向上し、「一式戦・隼」の火力と防弾性能の劣勢が、加藤隊長らの戦死にもつながった。(;)

北朝鮮の暴挙2006年07月05日 09:01

 北朝鮮が、日本時間5日未明から、断続的に数発の弾道ミサイルなどを発射したという。まだ、公表された情報も乏しく、その意図や政治的効果について断定的なことは言えない。しかし私たち日本人が、隣国のこの行動をどう読み、どのように対応すべきかについて、緊急に私の考えを述べてみたい。
 午前6時すぎの安倍官房長官の発表によれば、これらのうち3箇は、いずれも日本海に「落下」し「被害は確認されていない」という。5月中旬から、米軍によって発射準備が察知されていた、アラスカまでを射程距離に入れると見られる「テポドン2」が、この中に含まれているのかが、まず重大な評価点である。中ロが発射を知っていたのか、平壌宣言を敢えて無視した理由も重大だ。
 発射準備に対応し、日本海には日米少なくも5~6隻のイージス艦が警戒態勢に入っていたはずで、「落下」が単なる落下なのか「撃墜」なのかもキー・ポイントである。
 もし中距離ミサイルの「撃墜」すらなかったとしたら、日米のミサイル防衛に深刻な懸念が生ずる。もっとも、「スカッド」や「ノドン」といった中距離ミサイルは、1時間程度で発射可能とされ、地球上空を回っている米の偵察衛星も、完全には発射準備の探知はできない。
 つまり、「撃墜」がなければ、日本列島を射程に納める中国や北朝鮮の数百個のミサイルに対し、今の日本の迎撃防衛は、ほとんど無力である現実を示す。もちろん、これらのミサイルに小型の核弾頭を搭載することが可能だ。こうした国家との外交をどのように進めるか、日本人は「核のタブー」さえ外して、虚心かつ現実的に対応しなければならない時だ。
 日本時間5日の発射は、4日の米独立記念日や、NASAのスペース・シャトルの打ち上げ、韓国調査船の竹島海域の調査開始、北京の日本人記者団の平壌招待、6日のブッシュ米大統領の誕生日などを計算に入れた、したたかなプロパガンダの色が濃い。
 政府は、安保理への付託や、北朝鮮への経済制裁を当面の対応とする由だが、国民一人一人に、「核」が抑止力となった時代に適合した民族自衛への決断が迫られている。(;)

軍神の遺影(4)2006年07月06日 08:11

 1930年代後半は、世界の主要国が"臨戦態勢"で兵器の開発を競っていた時代である。軍用機の型式も足早に更新されて行った。「一式戦・隼」が実戦配備されるのを追って、中島飛行機では後継機の開発・生産が始まり、私が宇都宮に移り住んだ1943年当時の中島・宇都宮工場では、4枚ペラの「キ-84」の量産に移ろうとしていた。
 「キ-84」は、「四式戦闘機」・愛称「疾風=はやて」として戦場に送られた。「一式戦・隼」との最大の違いはエンジンの強力化だった。「隼」には、中島の開発した「ハ-25」型エンジンが搭載されていたが、「四式戦=疾風」には、ほぼ同じサイズの星形9気筒重列計18気筒の「ハ-45」型が据えられ、出力は倍の2,000馬力になった。 
 機械装置は、高度化し複雑になるほど生産がややこしくなり、保守点検も難しくなって故障も増える。「疾風」には、画期的な「ハ-45」型エンジンを積んだための脆弱点があったようだ。エンジンの機構が複雑だった。また、このようなエンジンには、ハイ・オクタンの燃料が必要だが、戦況の悪化とともに良質の航空燃料の確保は絶望的になっていた。
 不具合の原因は知らないが、中島工場の上空で試験飛行をしていた1機の「キ-84」が、突然「パン、パン」とバック・ファイヤー音を発して3kmほど離れた田んぼに急下降した。見ていた私たちは、走りに走って、胴体着陸した「キ-84」を取り囲み、着地の衝撃でへしゃげたプロペラや、泥まみれになった機体を目の前に見る興奮に震えた。
 なぜか、乗っていたはずの操縦士の姿はなかった。子どもたちがたどり着くまでの20分ほどの間に、近所の大人たちが助け出したのかもしれない。
 上空には、2機の僚機が低く旋回しながら、操縦士が風防を開けて身を乗り出し、腕を振って何かを叫んでいるのが、間近に見えた。声は聞こえぬ。だが、燃料引火、爆発を恐れて「離れろ!」と叫んでいたに違いない。が、そんな怖さなどは、つゆ知らぬ小学3年生、1943年晩秋の出来事だった。(;)

軍神の遺影(5)2006年07月07日 07:59

 飛行機が戦争に使われたのは、第一次世界大戦(1914~18年)が最初だ。野砲の射程が次第に伸び、弾着の確認のためにより高い場所が必要になって、19世紀末、すでに気球が採用されていた。次いで、急速に実用化が進んだ飛行機。その機動性が、まず偵察にもって来いだった。
 そのうちに、偵察機同士が遭遇する。どちらからともなく、腰のピストルで操縦士同士で撃ち合ったのが、空中戦の始まりだという。やがて、操縦席に持ち込んだ石や煉瓦を、上方から相手の機体や操縦士の頭を目がけて投げ落とす戦法も採られた。
 初期の飛行機は、翼も胴体も、油を塗って補強した「羽布=はふ」という亜麻の布で張ってあるのが普通だったし、骨組も軽い木材だったから、石や煉瓦で穴をあけられると、あっけなく空中分解することがあったという。
 航空機の外板や骨格が、羽布より格段に堅牢な、ジュラルミンの類の軽金属に変わって行ったのは1910年代末だ。このころになると、軍用機と民間輸送機は完全に分化し、軍用機、特に戦闘機には2つの大きな設計思想の違いが生まれる。空中戦で優位に立てる「運動性能」を優先させるか、「運動性能」とともに「防弾性能」を重視するかの2つの流れだ。
 1対1での挌闘が多かった当時の空中戦では、相手の後部上方に付けて銃砲撃を加えるのが勝ちパターンだった。このためには、戦闘機が上下左右縦横に身軽に、しかも高速で移動反転できる高度な「運動性能」を持つこと、そして機体を自在に操れる操縦士の練度がカギだった。
 しかし、高い「運動性能」を追って行くと、機体の自重を極限まで下げねばならず、重いが破壊力のある機関砲や、操縦席周りの装甲、特殊なゴム膜などを張る燃料タンクの防弾性は割愛される。それでは、貴重な熟練操縦士を犠牲にするので、長い目での戦力の維持には損だ。
 だが実は、「運動性能」「防弾性能」「火力」の3つを追及した米英の戦闘機に対し、日本の戦闘機は、高い「運動性能」で一撃必墜を狙う方向に走った。そこには「人間観」の違いもあった。(;)