とりなくこゑ2007年01月29日 08:01

 昨年4月27日の『雑記』で触れた、光人社刊『大正時代』の著者・永沢道雄氏は、新聞社に勤めていたころの、紙面を作る整理部の先輩だ。アルコールが入ると、心身ともに愛すべき「溶融状態」になって、ちと始末が惡かったが、たいへん博識で人柄もよく、今も敬愛する学兄である。
 ある晩、ちょっと「溶融剤」が入ったところで、「君、《とりなうた》を覚えてるかい?」と、親愛の手裏剣を投げてきた。
 「いやぁ、全部書けるかな?」と答えると、「じゃ、正確に書きたまえ」と、当時の新聞社で使ったザラ紙の原稿用紙の束をポケットから出し、卓上を滑らして寄越した。
 私が、隠しから鉛筆を取り出すと、ちょっと斜め上をにらんで、すらすらと口述を始めた。それも一気に唄って、次は聞き書きできるように、ゆっくり唄った。そんなところが、面白い人だ。
   鳥啼く声す 夢覚ませ 見よ明け渡る東を
     空色映えて 沖つ辺に 帆船群れ居ぬ靄の中

 読みはこうだ。──「とりなくこゑす/ゆめさませ/みよあけわたるひんがしを/そらいろはえて/おきつへに/ほぶねむれゐぬもやのうち」。
 「いろはうた」と同じに、48文字を全部使って作った歌として、多少知っていたのにはわけがある。──1923(大正12)年にパリで客死した草分けの新聞特派員・大住嘯風(しょうふう)が父方の血縁で、明治・大正の大衆紙『萬朝報』の記者だったことと、この歌が『萬朝報』の懸賞で一般から募集され、一席になったものというエピソードが頭にあった。
 嘯風、実名・舜は、仏教学者などとされているが、英仏語に通じた雑学教養人、つまりジャーナリストだったようだ。1881年(明治14)年生まれ、41年の生涯だった。『萬朝報』は、10世紀からの歴史を持つ「いろはうた」に替え、新しい「かな文字歌」を1903(明治36)年に公募、翌年春、埼玉県児玉郡青柳村の教員・坂本百次郎が、この作で金的を射た。
 かつて、記者はまず博識を重んじた。そして先輩から後進へ、職場でも酒席でも、豊かな知識の流れを伝えた。(;)