H先生の高潔2005年04月08日 08:52

 前項で紹介した「H先生」こと長谷部忠氏は、かつて朝日新聞社の社長を勤め、情実を排する信念から、3人の子息に同社の入社試験を受けさせなかった高潔の人である。
 先生は、敗戦直後の混乱期に、創業家社長はじめ最高幹部が、戦争責任を取る形で一時役職を退いた時、社員に担がれて編集局次長から取締役に選ばれた。
 さらに、1946(昭和21)年1月の、占領軍による公職追放令を受けて旧幹部が新聞社を追われた際、東京本社代表として社務の統括を委ねられ、49年暮れからは約2年、苦難の社長職を勤めた。新聞社のみならず、日本が激浪に揉まれた時期、まさに滅私の激務であった。
 というのは、占領軍による厳しい検閲の圧力と、社内にはびこった左翼勢力との狭間で、社政と紙面の自由と公正の維持に、日夜腐心し続けたからである。検閲の大権を握る当時のGHQ民間情報局の新聞課長インボーデン少佐と、自由な紙面作りを巡って、先生がたびたび激しく渡り合った事実は、新聞界の歴史に刻まれている。
 とにかく廉潔を絵に描いたような人だった。東京本社代表をしていた当時、インボーデン課長が、都内にあった先生の自宅を表敬訪問しようと、近くまで行ったところ、姉さん被りをした夫人が、パタパタと障子にハタキをかけているのが通りから見え、課長は、大新聞の代表の住まいとは思えぬ質素さに驚いて訪問を遠慮し、引き返してしまったという逸話がある。その家の座敷には、緒方竹虎からの書簡が額に納まって飾ってあった。
 「君子ハ其ノ独ヲ慎シム」というが、こんなエピソードも残っている。
 長谷部先生夫妻、ある晩、外出先から地下鉄で家に帰ってきた。かなり遅い時刻で、改札の駅員は、酔っぱらいの介抱か何かで改札口を外していた。夫人は改札口に切符を置いて、さっさと先に出てしまったが、先生がなかなか出てこない。
 いぶかった夫人が戻ると、先生は切符片手に、駅員の詰め所へ向かって、「オーイ、オーイ」と呼んでいる。「切符を置いて出ればいいものを、……乗る時に小銭が足りなくて、僅かな額の精算が必要だったので、駅員を呼んでいたんです」。
 長谷部社長から8代目、刑事事件を起こすような金貸しから”編集協力費”とやらを出させた上、事実を知っていながら長年放ったらかし、ばれても責任を取ろうともせぬ現社長の堕落ぶりが、何とも腹立たしい。(;)