数学の天才2005年04月27日 08:44

 君の高校の先輩Nさんが亡くなったよと、意外にも同窓でもないTが知らせてきた。書簡の整理をしていた娘さんから、訃があったという。孤独に亡くなってから、すでに数カ月を経ていた。Tは、数年前、ふとしたきっかけでNさんと知り合いになった。二人とも相当な奇人で、共に引き合うものがあったのだろう。生前、Nさんから私の名を何度か聞いたのでと、知らせてきたのだ。
 Nさんは、2年先輩である。開校以来5指に入る数学の天才だと、学内で有名だった。旧制中学から引き継いだ高校では、この種の「伝説」がいくつかあった。狭い世界での位付けだから、世の中に通用するかどうかは別だったが、下級生の尊敬と羨望を集めていたことは確かである。
 他の学科については語られることがなかったので、進学校の教師らが好んだタイプの「秀才」ではない。しかし、スルリと東大に入った。駒場時代に左翼運動に傾注したせいか、やや道が逸れ、私大の数学の講師を経て、一時は慶大の助教授を勤めた。
 いつも坊主頭で、よれよれの背広に下駄履き、本やらノートやらを包んだ風呂敷包みを小脇に抱え、何が可笑しいのか、ニコニコ笑いながら街を歩いた。捉まると、その時間帯に彼の頭脳を占拠している事柄を話題に、長話に引きずり込まれるので、閉口した者が多かった。
 晩年に至るほど、数学以外に関心が広がったようで、60歳を過ぎてドイツ語とエスペラントを学んだ。前後してドイツで開かれた学会に行ったが、靴を履いて行ったかどうかが周囲の話題になった。中には賭けた者もいたが、結果は知らない。
 高校長まで勤めた妻に先立たれた上、一人娘が嫁いで、外食依存の独り暮らしが長かった。炒飯が好物で、盛りが少ないと、配膳された品を持って、表のショウ・ケースに店員を引っ張って行き、「等号が立たぬ」と文句をつけた。
 ある時、パーティーに招かれたが、会場のホテルで下駄履きをとがめられると、脱いだ下駄を風呂敷包みに仕舞い、借りたスリッパで平然と乗り込んだ。
 その席だったか、石原裕次郎を捉まえ、「君は裕次郎とよく似てるねぇ。ポスターとそっくりだ。みんなそう言うだろう?。ね。ね。」としつこく迫って、裕次郎を「いやぁ、まいったなぁ」と辟易させたという。(;)