山口良忠判事2005年04月13日 08:46

 巨悪の摘発が、新聞でなく出版社系週刊誌の独壇場になって久しい。
 政界やメディアなどの腐敗ぶりが週刊誌の報道で明るみに出ると、競争誌が後続し、新聞や月刊誌を巻き込んだ大合奏に発展するパターンが定着した。
 新聞の取材能力が衰弱したというより、国民の多くに、新聞は権威や大組織の不正は率先して取り上げない、という固定観念が浸透して、内部告発などの情報提供も激減している。「民主社会の番犬」新聞と、国民の間に溝ができてしまったのだ。
 新聞には、公的機関が捜査・調査などで公式に真相究明に着手しないと、おミコシをあげない姿勢が強すぎる。そして公的機関にも、週刊誌の報道によって真相究明に動き出すケースが非常に目立つ。世に権威といわれる巨大組織ほど、素朴な正義感をないがしろにしてはいないか。身内の悪と腐敗に寛容で、鈍感に過ぎないか。
 NHKがメディアの指摘に応えて内部調査に踏み切り、公表した不祥事の内容を知るほどに、「この程度のことなら、ウチでもある」と、複雑な思いをしたサラリーマンや公務員は少なくないだろう。もちろん、マス・メディアに働く者も含めてだ。
 かつて不祥事を起こし、国会に社長を参考人招致された民放テレビ局などは、ここを先途とNHKバッシングに放送時間を大きく割いていたが、目クソ鼻クソの感は否めない。そもそも「NHKのカネは、国民の聴視料だ、特別だ」と、声高にあげつらうのもおかしい。公金は公金だ。
 企業や官庁で、組織内接待や経費・出張旅費の水増し流用、業者からのキック・バックの着服、飲食店の領収書による公金詐取、節税という名の脱税などは、日常茶飯に横行している。三井環・大阪高検元公安部長らの暴露で、警察どころか検察にまで公金の不正流用が及んでいることも知れた。
 戦後、ひどい食糧難の1947(昭和22)年10月11日、法を守る立場の者がヤミの食糧を口にするわけにはいかないと、配給だけに頼って栄養失調で亡くなった山口良忠判事の記事を新聞で読み、雷に撃たれたような気持ちに絶句した世代にとって、今の日本人は同じ民族なのかと疑いたくなるほど、正義や遵法に無頓着だ。
 それなのになぜ、新聞は社会悪の根源の摘発に消極的になってしまったのか。逡巡の理由を知りたい。(;)