外相謝罪の真偽2005年04月19日 08:14

 中国国営通信・新華社は、17日の北京での日中外相会談を受け、同日深夜、「町村外相が日本の中国侵略について改めて反省・謝罪を表明した」という記事を配信、18日の中国各紙は、これを1面で大々的に報じた。 
  中国のメディアが、共産党の独裁下で政府のプロパガンダを務めていることは天下周知だが、この姿勢には度し難いものを感じる。
 「反省・謝罪」となれば、外交辞令の域をはるかに超えている。町村発言が事実なら、日本の新聞をはじめ、諸外国のメディアも報ずべき重大事だが、18日の夕刊でこれを伝えた日本の新聞は、デモで高揚する「中国国民の対日感情を強く意識した報道」と、解釈を添えている。つまり、ウソであろう。
 武大偉外務次官は、18日、町村外相の反省・謝罪は「中国の在日公館に対する暴力行為についての言及だ」と、記者団に述べている。これまた、輪を掛けたウソであろう。
 独裁政権の決定的な欠陥の1つは、平気で公にウソをつくところだ。膝下のメディアもオウム返しである。だが、ウソは不信を生み、不信は暴力を生む。
   18日発売の米誌『ニューズウィーク』は、今回の反日デモが日本大使館を最初に襲った9日、胡主席招集の党政治局常務委の緊急会議が開かれ、「混乱拡大は、反体制分子に不満発散の口実を与えるだけだ」という認識の下に、「第2の天安門事件を防ぐ」ことで一致したと報じている。つまり党中枢は、国民のホコ先が中南海に向けられることを、何より恐れているのだ。同誌も示唆するように、党中央は初め反日行動を奨励する姿勢だったが、意外な騒乱拡大に慌てているようだ。
 英『エコノミスト』誌によると、日本政府は1972年の中国との国交正常化以来、少なくとも17回、日中戦争について中国に謝罪している勘定だそうだ。この中には、中国メディアだけが報じた"ウソの謝罪"も含まれているのかもしれない。
 日本の教科書を激しくあげつらう中国だが、お国の教科書には、中国が仕掛けた中印国境紛争(1962)、紅軍がヴェトナムを侵攻した中越戦争(1979)、国民のデモを粉砕した天安門事件(1989)、3千万人が餓死した毛沢東の失政・大躍進(1958~61)などの記述は、全くないという。(;)
 

国民の戦争責任2005年04月19日 15:38

 戦争中の男の子にとって、軍人はみな英雄であり、憧れだった。徹底した「軍国教育」の下で、お国のために命を捨てて戦う軍人に、感謝と尊敬の念を持つよう教え込まれていた。そして、子どもたちのほとんどが、自分もまた尊敬され崇められる軍人として、お国のために命を捧げる日を、幼いながら覚悟していた。戦で死ねば、靖国神社に英霊として祀られると信じていた。ちょっと成績のいい子は、競って陸士、海兵を目指した。
 戦に敗れてから、戦争は一握りの軍上層部や、好戦的な政治家によって推進されたのであり、国民はみんな犠牲者であるかのように喧伝された。が、戦争中の実態はかくのごときものであり、女子どもに至るまで、白人支配を脱した東亜新秩序への「聖戦完遂」に凝り固まっていたのだ。制限付きではあったが、国民に参政権も与えられていた。
 反戦・反軍の動きは全くなかったのかと言えば、そうでもない。太平洋戦争が始まる前年、昭和15年の春まで、兵庫県選出の斎藤隆夫衆議院議員は、日支事変の処理に関して、本会議場で反軍演説をすることができた。斎藤は、昭和11年の2・26事件直後にも粛軍演説を行って軍部や右翼に睨まれていたから、身の危険は覚悟の演説だった。
 実際、斎藤はこの演説を当の議会から咎められ、除名処分を受けて職を失った。
 だが、斎藤を擁して決死の反軍運動に立ち上がる国民はいなかった。みな、大勢に唯々諾々と従い、目先の生活を優先させていたのである。信念に根ざした極少数の反軍主義者、自由主義者、社会主義者は、獄に繋がれるか失職していた。しかし、彼らを救い出す国民運動もなかった。
 身を挺して反軍・反戦に立ち上がらなかったという意味では、当時の国民も戦争責任を免れない。ただ、国民が戦争責任なしと弁解できる余地は、為政者と国民の間に情報の共有がほとんどなく、ものごとを科学的合理性に則って論ずる姿勢が、社会に欠けていた当時の環境だろう。国際的にも、食うか食われるかの帝国主義の時代であった。
 天皇は天照大神、つまり太陽の子だと教わった時、小学2年の私は、「太陽はモノであり、モノから人間が生まれるのはなぜか」と質問して、「お前はアカかっ!」と叫ぶ教師に3~4メートル突き飛ばされ、殴られた。「アカ」の意味を、両親も満足に答えなかった。そんな時代だった。(;)