高野連の怯懦2005年08月30日 08:02

 総選挙公示日だが、「高野連裁定をどう思う」とのメイルをいくつか頂き、半世紀を超す甲子園ファンの一人として見過ごせない。政談は、ちょっと中断。──結論から言う。先の甲子園大会で優勝した駒大苫小牧高校野球部の不祥事に対する日本高野連の処断は、全く納得できない。
 ご存知の通り、明徳義塾高校野球部は、部員の暴力行為と喫煙を高野連に報告せず、内部で始末しようとしていたことを「隠蔽」と咎められ、甲子園への出場辞退に追い込まれた。一方、今回の駒苫に対する高野連の裁断は、「指導者の行為の責任を、選手に負わせるのは適当でない」という理由だ。
 各紙は"大岡裁き"のように押し頂いて、批判的な論評を閉め出しているが、夏春の甲子園の主催者は朝日と毎日であり、球団を持つ読売や中日は、高校球界が若い選手の苗床だから、それも当然。今や新聞や教育現場が、いかに「厳正さ」から遠く離れた存在になっているかかが分かるだろう。
 明徳の場合、不祥事隠蔽を図った指導者の責任を、全選手が負わされた。不祥事を起こしたのは一部の部員だが、無抵抗の下級生に暴力を振るったり、隠れて喫煙するような生徒が生まれるのも指導者の責任だ。そして駒苫の場合も、不祥事隠蔽の行為者は選手でなく指導者である。とすれば、両者の裁きに整合性が欠けてはいないか。そこに、高野連の保身と怯懦を見る。
 野球部も教育の場であることは、高野連も否定できないだろう。ならば、不適切な指導者の行為には、同じ裁定を下すべきだ。学園は師弟一体である。そして両校に共通なのが、勝利至上という誤ったアマ・スポーツ観だ。これを排除しない限り、健全な学園スポーツはない。練習中にエラーして苦笑することが、自らの指を傷つけるほど殴らねばならぬことか。まるで不敗信仰の旧軍のリンチだ。その底には、教育やスポーツでのカネ儲けも透けて見える。校是「行学一如」や法輪が泣く。
 駒苫もまた高校チームとしては失格。優勝旗は潔く準優勝校に譲るのが筋だ。だが、秋の地区大会にも出場可という。こうも不見識で非教育的な高野連では、明日にもまた同じことが起きかねまい。(;)

コメント

_ anonymous ― 2005年08月31日 08:04

 「不適切な指導者の行為には」不適切な指導者(やその監督者)を処分すれば良いだけの話では?
 私は駒苫に対する処分は妥当で、明徳に対する処分が不当であると考えます。明徳は生徒が隠蔽したわけではないので、「同じ裁定を下す」なら明徳に対する処分を取り消す(暴力行為や隠蔽に関係の無い者の出場を認める)べきだ(った)というのが私の考えです。
 処分は一貫していなければいけないと思いますし、高野連が過去の処分を撤回するのは現実的に難しいでしょう。しかし、事の是非を論じるのであれば、前回の処分内容が妥当であることを(無条件の)前提として今回も前回と同様の処分がなされるべきとの主張には賛同できません。竹庵様は明徳に対する処分は妥当とお考えなのでしょうか。私は、暴力行為についてはその加害者を、隠蔽についてはそれを行った者を処分すれば良いという考えなので、明徳に対する処分は不当に行き過ぎたものであると思います。
 駒苫の件については高校の幹部が隠蔽を試みたとの報道がなされています。これが事実であれば、高野連が隠蔽のペナルティーとして高校の幹部(野球部関係者以外)を処分することはありえないので、高野連が何か処分を行うと「関係の無い生徒達が処分されるのはかわいそう」ということになるのでしょう。
 明徳の時に「何に」ついて「誰を」処分するかを十分検討せず、加害者が生徒であるからと安易に連帯責任を負わせた高野連のいいかげんさが駒苫の問題で明らかになったと思います。高野連のWebには処分に関する規定は示されていないようです。処分のルールが無いために、恣意的であったり一貫しない内容の処分が下されることが最大の問題だと私は思います。

_ 竹庵 ― 2005年08月31日 13:18

 Anonymous 様。貴殿のようなご意見が、今日では一般的でしょう。
 でも、それではいけないと思うので、私は、この「雑記」で、8月8日から同22日まで、高校野球の歪みについて、私の見解を書き連ねて参りました。
 もちろん、それらをお読みの上での反論と思いますが、私の基本の考えを示した、特に8,12,15、16日の記述と、15日のコメントのやりとり、17日の提言を「バックナンバー」で読んで頂けていたのなら、少し違った受け取り方があったのではないかと存じます。
 学園スポーツは、ややもすれば他の目的が隠されている「勝利至上主義」や「技能優先主義」を排して、あくまで「教育の一環」として扱い、教育的見地からの不祥事には「師弟一体」としての教育的処分を断行すべきだと考えています。
 現状に合わないと言って、本来の理想を退けるのは簡単でしょうが、それでは学園スポーツの堕落に歯止めがかからないでしょう。高野連のペナルティー規定が不備なのは、ご指摘の通りですが、「師弟一体」としての教育的処分を基本原則にすれば、細かい規則など、無くもがなでしょう。
 そもそも教育には、未熟な後進に社会のルールを教えることが大きな柱になっています。そうした基本の教育がなされず、ルールを守れない生徒のいる学園は、スポーツを楽しむ以前の教育問題を抱えているわけで、スポーツの技倆の優劣を競う場には遠慮してもらうべきです。
 要は、高校野球は誰が何のためにするのか、基本に立ち帰ることではありませんか。なお、いかなるご意見の書き込みも歓迎ですが、匿名はいただけません。せめて、ハンドルネームを名乗ってください。

_ 竹庵訂正 ― 2005年08月31日 16:10

 Anonymous様への竹庵のコメント、末尾から6行目、「スポーツの技倆の優劣を競う場」は「スポーツの技倆とフェア・プレイを競う場」と訂正します。不悪。

_ 江田 公三 ― 2005年09月02日 02:25

 教育と野球の関係については、以前のコメントにも提言したとおりです。最高のプレーを実現するためのチームは高等学校での教育的な野球チームとは別立てであるべき(クラブチーム化)というものです。
 それはさておき、竹庵殿に素朴なる質問を。「殴った教師、告発を隠蔽しようとする教師と連帯責任をとらされることがわかっている場合、被害者や目撃者は件の暴力事件を告発できるのだろうか」ということです。今回の場合でも、被害者には多くの葛藤があったことと思われます。教育的な配慮から連帯責任を負わせるというのは、教育者側にその重みを理解できるだけの人格あってこそです。
 高校野球連盟は司法でもありませんし、各高校を指導する上位の団体でもないはずです。連帯責任という圧力で生徒たちの口をふさぐようなことはやって欲しくないと思います。

_ 竹庵 ― 2005年09月02日 10:01

 江田 公三様。お久しぶりです。「連帯責任」が、たいへん難しい問題を孕んでいることは、承知しております。
 連帯責任反対論の根拠は、事案に直接の関与や責任を持たない個人の自由や権利を損ねるという論理が一般的です。いかしそれは、個人の自由や権利を偏重するあまり、集団や組織のあり方や、その中での個人の役割を軽視した考え方だと思うのです。
 今の世の中は、あまりにも「自分さえよけれが」「身内さえよけれえば」といった、連帯を欠いた「個偏重」になりすぎてはいませんか。実は、民主社会とは、優れて、個の存在と集団の存在が切り離せない形態を特徴とし、その形態の堅固さなしでは成り立ちません。
 私たちは、戦争に負け、与えられる形で自由をで手に入れたために、自由を勝ち取り、守ることの厳しさや、自由を守るためには規律を不可欠とすること、権利には必ず義務が伴うこと、といった西欧社会が何世紀もかけて、時に血を流して確立してきた民主社会の諸原理の根源について、認識が甘すぎるのではないでしょうか。
 私は、こうしたことを、実践的に後進に教える場が、学園にほからないと考えています。学園の、師弟一体の小社会の中で、たった一人の成員の不心得=反社会的な個人的行為=が、全体を末永く忘れられないほどの不幸にすることを、肌身で教えることこそ、重要ではありませんか。そして、教育の場に「可哀そう」は断つべきです。
 今の社会は、こうした見方を軽視するからこそ、官庁にも、企業にも、学園にも「不祥事」が絶えないのだと思っています。そればかりか、国民の義務である担税を逃れるテクニックを「節税」と称したり、国に迷惑をかけ、国民の税金を使わせることを平気で、個人的動機から戦地にノコノコ出掛けて騒ぎを起こす自称"ジャーナリスト"が現れたりするのです。
 学校でのスポーツの意味は、さんざん書いてきましたから、ご理解頂けたと存じますが、学園という小社会を通じて、個人と全体の切っても切れない関係や、個人の自由のあり方をしっかり学んで貰うためにも、連帯責任は排除すべきではないと信じます。
 ハリケーン「カトリーヌ」の脅威的な被害の中で、一部の人間が混乱に乗じて略奪をする図は、大統領の美辞麗句とは裏腹に、アメリカという国が中東のイスラーム社会に民主主義を植え付けることを命懸けでやれる国家なのかという不信感を、世界に改めて植え付けました。
 朝日新聞社が、たった一人の不心得者の非常識な愚行で、信用を落として行くのも、個人の自由と全体とを兼ね合わせて考える教育ができていないからだと思います。この新聞社は、新聞界で最初に創設した研修所を、前社長が経理的見地から閉鎖しています。
 組織において、全体の実利を優先し、成員の内面を疎かにした結果の不祥事、そして、組織全体の信用失墜という不利益なのです。まことに、「個は個であって、個でない」のです。そして、「連帯」の重要さこそ、民族主義時代の民主国家の教育に、強調されるべき一事ではないでしょうか。 

_ 江田公三 ― 2005年09月03日 02:04

 連帯責任とは何かを考えてみた。「その組織の成員がともに責任を分かつこと」当たり前である。近所の誰かが、貧困から盗みをする。彼が犯罪を犯す前に、物的・心的な援助の手を差し伸べられなかったのか、周囲の者も自らを省み、再発防止の責任を負う。そういうことが連帯責任だと思う。
 言うまでも無いことだが、連帯して責任を負える社会とは、成員間にある程度の対等性を保障されたものでなくてはなるまい。教師が暴力をふるう。彼が理不尽な暴力をふるう前に、彼を諭し、また彼の抱えるストレスを取り除いてやる、また正しい道に教え導いてやることはできなかったのか、と生徒達も自らを省み、再発防止の責任を負う。そういうことが可能なのだろうか。
 教師と生徒、上級生と下級生といった構造の中で、不祥事の隠蔽を図る学校を諌めることのできる生徒がいるならば、そこではもう教育者と被教育者の立場が逆転しているといわざるをえない。わが校の校風にそぐわない行動をとるなら来なくていい、という学校が多い中、それだけの高潔で毅然とした生徒が集まる学校は存在するのだろうか。

_ 竹庵訂正 ― 2005年09月03日 09:42

 江田 公三様への応答(2005-09-02T10:01:43+09:00)のコメント中、以下のミスタッチと思い違いによる記述を訂正させてください。

 第3段落<「自分さえよけれが」「身内さえよけれえば」>→<「自分さえよければ」「身内さえよければ」>。
 第8段落<ハリケーン「カトリーヌ」>→<ハリケーン「カトリーナ」>。

 投稿後に気付いたコメントの直しができないようなので、済みません。

_ 竹庵 ― 2005年09月03日 10:26

 江田 公三様 私は、あまり複雑に考えなくとも、仰るように、連帯責任は、<「その組織の成員がともに責任を分かつこと」当たり前である。>を原則に推しておけばよろしいと考えています。
 前に、「「連帯責任」が、たいへん難しい問題を孕んでいる……」と申したのは、ご指摘の<連帯して責任を負える社会とは、成員間にある程度の対等性を保障されたものでなくてはなるまい。>という点との関わりなどを意識してのことですが、少なくとも教育の場であり、一般的な社会的規範の他にも「校則」といった独自のルールを掲げて営まれている小社会では、あまり複雑に考えることはないでしょう。
 高校野球問題に絞ったため、敢えて触れて来ませんでしたが、学園スポーツでの、ほとんど暴力と言ってよい「シゴキ」も、実は見逃せないと思っています。いずれも学園スポーツの本質を理解しない、間違った指導方法であり、なぜ高校の先生たちが、問題としてまともに取り上げないのか不思議です。
 ともかく、硬式野球のみならず、学園スポーツのあり方を、みんなが改めて考える時ではないでしょうか。少なくとも、勝利至上は排除すべきでしょう。でないと、「全国制覇」をモットーとする学園の相撲部から、勝ってガッツ・ポーズをする"スーモ"の"ヨーコヅーナ"が生まれることになるのです。
 学園スポーツは、あくまでも本業でない「スポーツ」であり、学力低下が懸念される時代でもあるだけに、学園は本分の学問を第一義に扱ってほしい。生徒も父母も、何のために高校に学ばせるかを、根本から考えないと、進学の意味がないでしょう。
 「学問は嫌いだが野球は好き、将来はプロになりたい」なら、提言したように、野球専門学校に学ばせ、そのような学校は「全国高等学校野球選手権大会」の枠外に置いて、独自の全国大会を、それこそ日本№1をかけて争えばいい。
 「全国高等学校野球選手権大会」は、学園スポーツとして、技能・体力・知力・徳性・品位を競うものでありたい、と思い続けています。でないと、まともな学園は、甲子園に行けませんから。

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