発信の責任(上)2007年01月02日 08:05

 発売中の月刊誌『Will』2月号に、「朝日新聞は『社説』を廃止せよ!」と題する一文を書いた。 もともとの狙いは、こうだ。──「商品」としての新聞は、インターネットの普及に代表される情報革命によって、斜陽化を否めない。そのような状況の新聞にとって、社説、とりわけ朝日の社説が、商品の値打ちを高め、失地回復のために役立っているのか、そこを検証することにあった。
 詳しくは、小論をお読み頂きたいが、私の認識では、朝日の社説は◇情報革命に対応できていないばかりか、ネット世界に対して拒絶的である。◇世界の歴史的変換にも対応しきれずに、破綻した階級闘争史観にしがみついている。◇日本周辺の安全保障環境の急変にも、柔軟な対応ができていない。──という3つの理由で、紙面の価値を高からしめる働きをしていない。そう、書いた。そして、結びの部分で「社説無用論」を、次のように述べたのである。
 「すでに世の中は、新聞社の『社説』を、無署名で提供する時代ではなく、どんな記事・論評・解説にも筆者の署名を添え、その責任と立場を明確にする時代である。本来、多様きわまる社内の意見や主張を、無署名の記事に集約し、『社説』と銘打って世に問うことには、もはや、意味があるとは思えない。朝日の新しい経営陣に、新時代にふさわしく、『社説と論説委員室の廃止』を断行するよう提案する」と。これには、同紙論説委員にも、少なからぬ賛同者があった聞く。
 紙に印刷された情報や評論の世界に、なお“蟄居”している大論説記者は、自分たちの書いた「社説」が、ネットの世界で散々にコキ下ろされ、侮蔑されていることを知らず、また知ろうともしない。だが、日々に膨張を続けるウェブの世界では、「書いたら書かれる」「書かれたら書く」という対論・対話のルールが、すでに定着しているのだ。
 なのに、無署名で、応答責任者の名も掲げず、「批判があれば、言わしておけ」という姿勢で、印刷の世界という“情報宇宙”の半球に鎮座し、独裁政党のコミュニケのような論説を発していたのでは、現実から乖離するばかりだ。(;)