混血の孤児(下)2007年01月24日 08:05

 新制中学を出たばかりだ。海岸の砂が国有財産であることなどつゆ知らず、大磯の海岸は砂利ばかりだからと、白砂の鵠沼海岸から何はばからず採ってきたのだ。
 この日も、「園長先生」こと澤田美喜は、屋敷の縁側に立って、遠くから私たちや、遊んでいる子どもたちを眺めていた。
 やがて、使用人の若い女性を手招きして、何やらやりとりすると、私たちの方へペコリと頭を下げて部屋に引っ込んだ。
 こちらに戻って来きた女性は、「この砂、海岸から勝手に採って来たものなら、ドロボウになるから、これ以上は止めてくださいと仰ってます」と告げた。
 正直、びっくりした。誰も、海岸の砂に持ち主があることを知らなかった。YKが、口をとがらして「やっぱり、根はブルジョワジーだ」と、苦々しげに言った。ちょっと生意気な少年は、多少ともピンクに染まっていた時代だ。大陸で育ったAKが、「そうとも言えんだろ。調べてみなきゃ」と応じた。
 戦争に負けて、1945(昭和20)年の秋から、「進駐軍」がどっと入って来た。ほとんどは米兵だったが、一時は40万人を超えたと言われる。
 当時は新聞にも信書にも検閲があり、進駐軍の兵隊が絡んだ犯罪は、警察の記録さえおぼつかない。新聞の中には、「現場には13文の靴の足跡が残っていた」 などと、検閲を巧みにすり抜けて書いた例もあったが、今でもほとんどが闇だ。
 強姦も多かった。不幸にも懐妊した女性には、産んだばかりの子を捨てざるを得ない者もいた。美喜がこんな子たちの施設を作ったのは、東海道線の車中で、網棚から死んだ嬰児の包みが頭に降ってきたのがきっかけだ。
 施設の名は、最初に資金を出してくれた英国女性に因んで、エリザベス・サンダースと名付けられたというが、Sanders'なのか Thunder'sなのか、今も知らない。
 ホームの存在が知れると、例のトンネルに赤ん坊を置いて去る者が増えた。ここで育った子は2,500人に及ぶという。混血児や私生児への偏見が強い国柄だ。美喜は、大半の子を海外のツテを頼って欧米へ里子に出した。戦後の歴史には闇が多い。新聞が見直すべき主題だろう。(;)

コメント

_ 5963b ― 2007年01月24日 09:11

お久しぶりでございます。毎回大変貴重な時空を超えたお話に感服しております。
昔学生時代にサンダースホーム卒園生のアマゾン移住に少し関わった経緯から、その当時の世相や移住地トメアスへの卒園生の移住後の諸事情を知ることができました。
もし竹庵先生が持ち合わせ情報を可能な範囲でご披露下さるならば誠に幸いでございます。
昨年、家内と車で上京の折り、R1号線大磯町の学園訪問を計画して、件のトンネルを通りましたが、何故か学園の掲示板のみを覗いて帰りました。また湯島の旧岩崎別邸見学などで澤田先生の幾らかを懐かしい思い出を巡ることができました。

_ 竹庵(5963b様へ) ― 2007年01月24日 14:38

 5963b様。 たいへんお久しぶりです。お元気でしたか。
 エリザベス・サンダースホームには、その後2度ほど参ったきりで、これ以外にお分けするような情報はありません。『週刊朝日』に長期連載されていた、徳川無声の「問答有用」に澤田美喜さんが登場して、外交官夫人だったころの艶話を語っていたと記憶します。たしか、「ラブ・レターがトランク一杯分とってある」という発言が記憶に残っていますが、……。
 園児のブラジル移転を手伝われたそうで、いいことをなしました。美喜さんが、私たちガキどもを何と思っていたかは分かりません。直接の交流は、あの「ペコリ」1回きりでした。戦後の世相の激変に人嫌いになっていたのかも知れません。メディア経由の間接的な印象でも、あまり笑わない人のようでした。
 記憶では、園の経営資金集めに、旧友のジョセフィン・ベーカーが来日して公演したと思いますが、網棚から降ってきた嬰児の死体も、黒い膚だったと聞きます。

_ とんこう ― 2007年01月30日 08:12

若林忠志の逸話もありますね。

トラックバック