遺ブログ展2005年04月05日 06:59

 電子メイルはまことに便利だが、味わいにはすこぶる乏しい。携帯メイルは、合図のようだ。
 昭和ひとケタ世代までだろうが、かつては文通に神経を使った。文章(テキスト)だけが相手に届くのではなかった。文体、筆跡はもとより便箋、封筒まで、送る側の人格がはっきり表れたから、手紙書きは端座を要した。それで筆無精になった人も、大勢いる。
 若い男女の文通にも、ちょっとした決まりごとがあった。赤インクで書くのは絶交状と決まっていた。×印を署名の後に加えると、その数だけの口づけの気持ちを意味した。かつてスペイン人の丁重な書簡には「M.B.S.M」と末尾にあった。「Mil Besos a Sus Manos」の略で、「数多の口づけを御手に」という最上級の親愛の表現だ。すでに形式化していたから、今も使っているかどうか。
 万年筆が知識人の必需品であった時代まで、人々は筆跡を問題にした。達筆であるとか、筆勢があるとか、味のある筆遣いであるとか、やはり親子で書体が似ているなどと、話題にした。
 それが、ボールペンやフェルトペンが筆記用具の主流になって様子が変わった。次いで、書簡や報告書などを、もっぱらパソコンやワープロで作るように変わって、手書き文字についての人々の見方に革命が起きた。今や手書き文字は、コミュニケーションの、含蓄に富んだ手段としての性格を失って、書道という芸術の世界に閉じこめられた感がある。
 高校で同期の優等生だったMは、母校の国語教師となった。フォントの教科書体のような書を能くしたから、校内に会館が新築された時に、推されて会館名を揮毫した。石に刻まれたからには、末永くその文字が"教科書のような"人柄を偲ばせるよすがになるのは、是非もない。
 丸善商会によって「万年筆」と命名された新式筆記具が初めて輸入されたのは、明治20(1887)年ごろと伝えられるが、奈良の昔から明治の末年まで、日本の筆記具の大勢は毛筆であった。当然ながら、歴史に名を馳せた先人の手蹟には、それぞれの個性が今なお躍動している。時に「遺墨展」が人を集めるのも、この魅力によるものだろう。
 作家がパソコンのワープロ機能で書く時代だ。後生の人は「遺ブログ」を偲ぶのであろうか。(;)

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