匿名は怯懦だ2007年01月08日 08:11

 「言論」は全て、発信者の「実名」を伴って発せられるべきだと、私は堅く信じている。
 この場合の「言論」には、単なる情報から論評・見解・私信までを含む。要するに何かモノを言う、あるいは書く、つまり発信するからには、必ず実名を添え、情報の受け手が発信者との対論・対話の連絡が取れるよう、住所・電話番号・メイルアドレスなど、アクセスの手掛かりを付けておく。出版物上での発信なら、その出版物を編集・管理している出版元が、アクセス・ポイントにもなる。
 「言論」の発信は、軽々しいものではない。ことと場合によっては、言論の対象となった客体を、ひどく疵つけることもあるし、特に個人に向けて発せられる批判・非難の類では、相手を抹殺することだってある。つまり「言論」は、時に凶器にすらなる。
 発信者は、まず、この事実を肝に銘じ、自分が発信した「言論」が、社会にどんな影響を与えるかも、事前に周到に吟味する責任がある。まして、対象が特定の個人や組織であり、特にそれを批判・非難する場合は、白刃を突きつけると同じ感覚で、発信に臨まなくては、非礼である。
 「言論」の発信は、竹刀を使った稽古ではなく、発信者自らの生命にも関わる「真剣勝負」なのだ。だからこそ、実名を名乗る明澄さが欠かせない。「匿名」、あるいは「無名」で斬りつけるのは、無頼の徒がすることであり、卑怯で懦弱な手段として、言論の社会では許さるべきではない。
 一方で、「匿名が自由な言論を保障する」、といった理屈を言う人々がいる。それは謬見であろう。現実の社会には、個人の自由を束縛するさまざまなしがらみが実在し、確かな事実に則った「言論」の発信ですら、利害関係者からの批判・攻撃に曝される場合がある。時には、こうした勢力から、言論活動への報復として、発信者が実生活上の権利や安全を侵されることもある。
 しかしそれは、野蛮で暴力的な権力・権勢が自由な言論を妨げている表れであって、本然の「言論自由」は、そのような圧力をはねのけ、命を賭しても「実名」で貫かれなくてはなるまい。(;)

自由にも歴史2007年01月09日 08:01

 ネット世界が膨張するにつれ、全体として言論発信者の責任感が薄れて来たように、私には感じられてならない。その傾向は、ネットの世界から既成の言論界にまで広がって来た。
 特に、テレビ・放送の言論発信には、送りっ放し、言いっ放しというメディア特性に甘えているのか、さまざまな局面にそれが目立つ。
 情報は、受け手の引用を覚悟して発信されねばならぬ。ウェブの世界では、「コピー」である。そっくり「転送」することも簡単だ。既成のメディアでは、及びもつかない便利な情報処理技術が普及したわけだが、その分、他人の情報を引用しての再発信に安易さがつきまとう。
 技術的な簡便さが先行して、間違った情報、悪意を孕んだ情報などが、不注意と軽薄さをつけこまれて、細菌の分裂のような勢いで拡散して行く。
 ネット社会とは、実はとてつもなく危険な世界なのだが、そこを恐れている人は少ない。もし、ヒトラーとナチスのような、情報操作で社会を動かす意図を抱いた人々が、今日の社会で力を得たら、その影響力は電撃的なものになるはずだ。
 日ごろ、何も考えずに享受している「言論の自由」だが、市民の財産になるまでには、先人たちの命がけの闘いがあったことを忘れてはならない。『源氏物語』一つとっても、一般国民が全編を読めるようになって、まだ半世紀ちょっとなのだ。それまでは、天皇と皇室の神格性を損なうという理由で、肝心な「不倫」の部分が出版されることはなかった。
 自由には責任が伴う。最低限の「不自由」を忍ぶ「自制の責任」が必要だ。具体的には「自主規制」であり「自浄」である。自由と放縦は異なる、自制のない自由が放縦の域に及んで、その弊が公益を損なったり、他人の権利や自由を侵す状況がはびこればれば、得たりやおうと、公権力が法規制に乗り出してくる。中国や米国のネット監視体制を見れば、それは明らかだ。
 ネットの自由を確保し続けるために、利用者もプロヴァイダーも「実名発信」を貫くべきだ。(;)

黙って潜れか2007年01月10日 08:05

 北朝鮮の核実験成功発表から、3カ月が過ぎた。熱しやすく冷めやすい国民性のせいか、なるようにしかならん、という投げやりな諦観のためか、“床屋政談”からも、この話題はほぼ消えた。
 どんな魂胆があるのか、まず、新聞がこぞって北朝鮮核ミサイルへの対応策を論ずることを封じ込めてしまった。「わが国の核兵器保有の是非を論ずる議論は、あってもいい」と、ごくあたり前の発言をした中川昭一自民政調会長や、「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、いろいろな議論をしておくのは大事だ」と、これまた当然の答弁をした麻生太郎外相も、聖域に踏み込んだ異教徒のように、マス・メディアはもとより同僚議員にまで指弾され、苦笑いして黙り込んでしまった。
 政治の第一の責務は、国民の生命と財産を守ることだ。ならば、国家・国民の安全が危殆に瀕するのを読んで、対抗上の選択肢としての「核保有の是非」を虚心に論議するのは、政治家の義務である。それを、「核保有の是非論は《非核3原則》を国是と結論済み」などと、横を向いてしまうのは、黒眼鏡のヤクザ集団に出会ったら、視線が合わぬようにやり過ごせ、とする姿勢と同じだ。
 首相自ら「政府や自民党では、論議するつもりはない」としたのも、期待に反した。安倍内閣は、戦後のタブーに挑戦する政権ではなかったのか。腑抜けな指導者に率いられた国家の、腰抜けぶりを嘲笑うように、13カ月ぶりで去年暮れ再開された6者協議は、予想通り、何の進展もなく終わった。北朝鮮は、核ミサイルの抑止力を信じ、その完成のために時間稼ぎをしているのだ。
 このまま推移すれば、2~3年後には、北朝鮮が核弾頭のついたミサイルを持つ。日本国民はどうすればいいのか。今こそ、政治とジャーナリズムが方向を示す時だ。遅れは許されぬ。
 論議の果てに、抑止力としての核保有で合意するのか、《3原則》を変えて公然と米の核を持ち込ませるのか、集団的自衛権を認めるために憲法を改正するのか、国民こぞっての議論を要する問題は山積している。時間の余裕はない。黙って、地下深く穴を掘って潜れとでもいうのか。(;)

核感覚の変化2007年01月11日 08:02

 7日の日曜日午後、テレビ東京の人気番組「日高義樹ワシントン・リポート」は、キッシンジャー元米国務長官との単独インタビュー。現代史の立役者も老けたな、という印象だったが、1923年5月生まれの83歳。無理もない。例のくぐもった声で、日本の核武装を当然視し、「実現は10年内」と予測してみせた。彼の持論だ。いぶかしげに、「まだ開発に着手していないのか」とも言った。
 一方、7日付けの英紙『The Sunday Times』電子版は、ニューヨークのウズィ・マーナイミ(Uzi Mahnaimi)、ワシントンのサラ・バクスター(Sarah Baxter)両記者による「イラン作戦」という長文の記事を掲載した。テル・アヴィヴの都心深くにあるイスラエル空軍司令室の指揮の下、ネゲヴ砂漠とテル・アヴィヴ南方のテル・ノフ(Tel Nof)を基地とする2つの急襲飛行隊が、救難へりまで待機させて、イランの核施設へのピン・ポイント爆撃の訓練をしている、という書き出しのリポートだ。
 このところ急速に国民の支持を失っているようだが、イランのアフマディネジャド大統領は、国家としてのイスラエルの存在を認めず、国連安保理の制裁決議を無視して、独自の核開発を推進している。記事によると、首都テヘラン南方のナタンズ(Natanz)にあるウラン濃縮施設は、強固な掩蔽壕の奥底に、遠心分離器を並べて操業を続けているとされる。
 このナタンズが、イスラエル空軍の第一の標的。作戦計画では、まずレイザー誘導の通常爆弾で、掩蔽壕の強化コンクリートの重層に深い穴をうがち、次いで爆発力の弱い1キロトン程度の核爆弾を、その穴に撃ち込むのだという。目算では、核爆弾は地下深くの施設と掩蔽壕をともに破壊するが、放射能汚染の範囲は限られるという。
 記事は、「このような計画を、米政府は決して容認しない」との米アナリストの見解を添えているが、イスラエル空軍は、1981年にはイラクのオシラク(Osirak)にあった核工場を急襲、破壊している。国家の存続のためには、今や1キロトン程度の戦術核は、許容される寸前なのかも知れない。(;)

イラン新戦略2007年01月12日 08:02

 ブッシュ大統領は、10日夜(日本時間11日午前)、全米に向けた約20分のテレビ演説で、泥沼化したイラン情勢からの脱出口を探る「新戦略」を発表した。その柱は、すでにイラクに展開中の約13万の米軍に加え、新たに陸軍5個旅団約1万7千と、海兵2個大隊約4千計2万1千人を追加投入するというものだった。反対の声は高まっており、あるいはとの期待もあったが虚しかった。
 昨年秋の中間選挙で民主党が勝利し、米史上初の女性下院議長になったナンシー・ペローシ民主党院内総務を筆頭に民主党の多数、米国内の各種世論調査でも6割近くが、イラクからの「早期撤退・増派反対」を叫ぶ中での、ブッシュ大統領の開き直りに似た決定だ。
 米国の危機を見かねて、パパ・ブッシュの下で国務長官を勤めたジェームズ・A・ベーカー氏ら連邦議会の超党派諮問機関「イラク研究グループ(ISG=Iraq Study Group)」も、先月6日に発表した報告書で、18カ月以内の期限付き撤退を勧めていたが、無視された形になった。
 ブッシュ大統領が、これほどまでに“中央突破”に拘る理由は体面か。「新戦略」発表の演説で、内戦状態にまで悪化した現状を招いた責任が自分にあることを、「the responsibility lies with me」と、さすがに認めた。しかし同時に、イラクの反政府・反米テロ集団を完全に掃討するだけの兵力が不足したと、兵力の過少投入という過ちを根拠に挙げた。かつての盟友ラムズフェルド前国防長官の、効率偏重の兵力展開に責任を転嫁したものと取られても仕方ない。
 不快だったのは、「イラクでの失敗は、米国にとって取り返しのつかないものとなる」とし、「撤退は、イラクにおけるアメリカの試みの失敗を宣告するものであり、中東全域に混乱を広げ、米国に向けての(ミサイル)発射台を備えさせ、イランの核開発を勢い付かせる」と、大げさに恐怖を煽った点だ。いったい誰が、戦乱に火を点けたのか。大統領も、国民も、経緯を静かに考える時だ。(;)